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福島浜通りの名城・中村城跡

高麗門が迎える浜通りの名城

相馬中村城を訪ねたのは,中学の頃に父親の車に乗せてもらって来たのが最初だったと思う。その後,もう一度くらい電車に乗って自分一人でも来たことがあったような気がする。この小さな城に関心を持ったのは,全国の城郭を紹介するハンドブックのような小さな本に掲載されていた高麗門が,よほど印象的だったからだと思う。確かに,高麗門形式の城門が現存しているというのは,東北地方では非常に珍しく,とにかくそれを見たかったという当時の思いが蘇える。改めてその門の前に立ってみるとやや小ぶりながら,その姿は見事な高麗門である。特に,控え柱に小屋根がかかった背面の姿が良い。城の最初の入り口である外大手一之門に相応しい構えと言える。流石は,相馬小次郎と呼ばれた平将門の流れを汲む戦国大名・相馬氏の築いた城の顔といえるだろう。

相馬義胤が武蔵(埼玉県)川越城城番のときにその城門の堅固なのに感心し,それを模して作らせたといわれる1649(慶安2)年の完成である。

現地説明
外大手一ノ門正面(2024.7.4)
外大手一ノ門背面(2024.7.4)

堅固な縄張りを今に伝える

戦国時代の相馬氏は,幾度となく伊達家との間で死闘を繰り広げている。その本城である中村城の造りは,流石に堅固である。巨大な土塁や石垣が残るわけではないが,一之門をくぐり,中の門へと向かう辺りの水堀の配置や土塁の痕跡からは,この城の縄張りの巧妙さ,守りの固さを感じ取ることができる。特に,伊達領と向き合う北面の曲輪の配置は見事だ。決して,規模が大きいわけではないが,現在でもお城の構造がよく残っており,この城跡の価値を高めている。

現地説明板(2024.7.4)

丸土張の配置

大手一ノ門,ニノ門,中ノ門を経て坂道を登り,東二の丸を経て本丸へ向かう。すると,本丸の入り口である赤橋の手前の広々とした空間に至る。赤橋の方に目を向けると,背後には,藩主の邸宅があったという東二の丸が見える。現在は,二の丸球場となっている。

本丸と東二の丸の間には,丘陵の端部を利用してつくられた丸土張(馬出し)がありました。

現地説明版

現地の説明と縄張図を見ると良く分かるが,赤橋へと向かう本丸の入り口が,枡形を組み合わせたような,とても複雑な構造をしている。防御を固めるとともに,出撃態勢をとるためにも都合よく造られている。中村城の縄張図を見ると,このほかにも,随所に大小の馬出しを重ねるような工夫が見られる。

本丸の赤橋と黒橋

中村城は,本丸の東の入り口に架かる赤橋,西の入り口に架かる黒橋のあたりの姿がとても良く,みちのくの名城たる雰囲気を醸し出している。赤橋側,黒橋側ともに形状は違うけれど,屈曲した感じとか空堀の跡とか,いかにも虎口らしい雰囲気を残していて興味深い。

本丸一ノ門,ニノ門跡(2024.7.4)
本丸搦手門跡(2024.7.4)
黒橋(2024.7.4)

本丸を巡る鉢巻石垣

本丸南面は切り立った崖になっており,往時はその裾を内堀と呼ばれた水堀が巡っていたらしい。今は黒橋側にその一部が残っている。この城の特徴は,崖の上に鉢巻状に巡らされた石垣だろう。ただ,確かに崖の上に乗った「鉢巻」のようにも見えるが,石垣の上にもさらに土が盛ってあるようにも見えるので,腰巻きなのではないかと思ったりもする。現地の説明は以下のようになっている。

本丸の切岸(崖)は急斜面で,中段より上に鉢巻石垣が一周している。1611(慶長16)年会津藩浪人幸田彦左衛門の指図で構築されたといわれている。石材は,川石の自然石に割石を混ぜ,石材の小面を横に据える野面積みである。上下の石が奥で噛み合うため口があき,明暗が生じて自然にとけこんでいる。石垣は浜通りでは平城と中村城のみである。本丸南面切岸の下は内堀で一部西端に遺存する。

現地説明(2024.7.4)
本丸南面の段丘と鉢巻石垣(2024.7.4)
東三の丸 中堀(2024.7.4)

中村神社が鎮座する妙見曲輪

相馬氏の氏神である「妙見」を祀る中村神社が鎮座する,妙見曲輪という一角が城の西方にある。西二の丸との間を隔てる空堀の跡も残り,ここも曲輪の一つであることが確認できる。今も残る権現造の社殿は,寛永20年の建築らしく国の重要文化財となっている。外側から見ることしかできないが,見事な佇まいである。遠祖である平将門が篤く信仰した妙見を代々大切にしてきたことがよく分かる。境内は,相馬野馬追の出陣式の場所ともなっている。

中村神社の境内(2024.7.4)
相馬中村神社の社殿(2024.7.4)

妙見曲輪は,西二の丸の一角にあり,藩主相馬氏の氏神である「妙見」を祀っている社殿があるところです。社殿は,本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りの建物で,相馬義胤が寛永20年(1643)に建てたものです。現在の相馬中村神社社殿は,江戸時代初期の建築様式を留めている建物として国の重要文化財となっています。

現地説明(2024.7.4)

戊辰戦争と中村城

相馬藩は,奥羽越列藩同盟に加盟し,浜通りを北上する明治新政府軍を迎え撃った。明治元年6月から7月の磐城平城での攻防に敗れたのちは劣勢が続き,8月6に降伏。以後は,降伏した軍の定めとして新政府軍の一翼を担い,同盟していた仙台藩との戦いに臨むことになる。主な戦いは,中村城の北方,駒ヶ嶺城を巡って行われ,結果,仙台藩は敗れ去ることになる。新地町の沿岸には退路を断たれた仙台藩兵の悲劇を伝える碑が残されるなど,相馬一帯にも戊辰戦争の傷跡が残されている。中村城自体で戊辰の攻防があったわけではなかったものの,明治新政府により城の建造物は,そのほとんどが取り壊されてしまったようである。それを思うと,大手一ノ門が残され,今に伝わっていることの感慨は深い。

参考

中村城跡 / 相馬市公式ホームページ

県指定史跡「中村城」案内図 / 相馬市観光協会オフィシャルサイト


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