“うわさ”をたよりに思い描く・八戸城跡
八戸のうわさプロジェクト
大学生の頃から縁があり,何度か訪れている八戸。八戸のお城といえば,真っ先に思い浮かぶのは,南朝の忠臣として活躍した南部師行が築城し,江戸初期まで根城南部氏による八戸統治の中心であった「根城」だろう。多くの人にとって,八戸城は,その存在自体もおぼろげなのではないだろうか。JR本八戸駅から中心街に向かって歩くと,通りの至る所で,八戸に関する“うわさ”が記された吹き出し等を目にすることができる。これらは,「八戸のうわさ」プロジェクトで設置されたものらしく,もちろん,八戸城に関するものもある。“うわさ”をたよりに,お城があった頃に思いを巡らせるのが,八戸城の楽しみ方でもある。
城跡の痕跡を残す三八城公園
“うわさ”ではない,実際の城跡の痕跡は,本丸の一部に当たる三八城公園付近に残っている。特に,本丸西側の急崖は,高さがあり,なかなかの要害であったことを感じさせる。絵図によれば本丸と二の丸の周囲は,水堀で囲まれているが,現在は道路になってしまったようだ。
八戸藩の成立と八戸城
八戸藩の成立について現地の説明板には,以下のように記されている。盛岡南部氏初代・南部利直が,八戸を直接支配するに当たって八戸城を築城。しかし,盛岡南部氏2代・南部重直が世継ぎを定めないままに死去したことによって,盛岡藩からは独立して八戸藩が成立。城と城下町の本格的な整備は,八戸藩の成立以降だったことが分かる。三八城公園内には,八戸藩初代・南部直房の銅像が鎮座してる。
八戸城の遺構
八戸城のわずかばかりの遺構については,八戸市ホームページ開藩350年「【第五回】城下町のなごりが残る建造物等」で詳しく紹介されている。建築物で代表的なものに,「角御殿表門」がある。「角御殿」と呼ばれていた屋敷地を拝領した家臣が「八戸城にふさわしい門と玄関を建てるよう命ぜられ」(現地説明版)て建てた門らしい。“うわさ”の吹き出しには,「この門は八戸城の一部らしいですよ」と書かれているが,正確には城門ではないということになる。しかし,かなり大きく風格のある棟門であり,廃藩置県後は南部子爵家の表門として使われていたというのも納得できる。
城門の遺構としては,安政6年(1859)の台風で倒れ ,家老の木幡家に払い下げられた八戸城東門が,「史跡根城の広場」の入口の門となっているらしい。だとすると,城門の遺構としては,これが唯一ということになる。
戊辰戦争と八戸城
幕末・八戸藩の最後の藩主,南部信順(のぶゆき)は,薩摩藩8代藩主・島津重豪の息子である。このため,八戸藩は,盛岡藩に同調し奥羽列藩同盟に属してはいたものの,薩摩藩を通して新政府側とのつながりを保っていたのだと思われる。明治元年(1868)9月20日の盛岡藩降伏後の9月22日に起こった野辺地戦争では,盛岡藩と行動を共にし,新政府側についた弘前・黒石両藩を撃退している。それでも,八戸藩に対する戦後の処置は寛大であり,領地を減らされることなく安堵されている。
最後の藩主・南部信順については,「八戸市ホームページ/八戸開藩350年/【第二回】八戸藩の歴代藩主」で,肖像画を見ることができる。恰幅がよくて髭も濃く,いかにも南方系,薩摩の出身といった風である。
八戸城は,その後どうなったのか。廃藩置県までは,知藩事となった八戸南部氏の政庁として機能していたのかもしれない。webで確認できる範囲では,廃城・破却までの様子がよくわからない。明治7年(1874)には,城内に勧請されていた新羅宮が,旧本丸御殿跡に三八城神社として再建されているので,それまでには,姿を消してしまっているのだろう。今となっては,“うわさ”を頼りに,往時の八戸城の姿に思いを寄せるしかない。
【参考】
青森県史デジタルアーカイブス/青森県史資料編近世6/第1章幕末・維新期の政治過程/第3節「明治元年の政治過程」 ○戊辰戦争と北奥諸藩