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太鼓堂が可愛らしい・涌谷城跡


仙台藩領内に唯一現存する城郭建築・太鼓堂

仙台藩には,一国一城令の例外として白石城の他,実質的には城郭である「要害屋敷」がおよそ20城ほど置かれ,江戸時代を通じて多くの城郭が存在していたといえる。にもかかわらず,城跡に現存する建築物をほとんど確認することができない。社寺等への移築により残された城門等がいくつかあるものの,現地に現存しているものは,涌谷城(涌谷要害屋敷)に残された太鼓堂(隅櫓)が唯一ではないかと思われる。その姿は,現地の説明板が「極めて素朴」と表現しているように,まずは規模が小さい。ただし,1階の黒い腰板だったり,2階部分が漆喰ではなく板張りであったりするところが,なんともいえず,よいアクセントとなっている。これを「櫓」と称するのは少々憚られるような気がするが,その素朴さが可愛らしくもあり,櫓下のこれまた素朴な石垣と併せてよい風情なのである。もちろん,背後に天守閣風の資料館が建っていることには,賛否あるのだと思う。それでも,桜の季節に,滔々と流れる江合川越しに資料館と太鼓堂が並び建つ姿を見れば,城と桜のベストマッチを感じずにはいられない。それが見たくて,まだ小学生の頃,父の車に乗せられて初めてお城見物をしたのが,この涌谷城だったことを思い出す。

太鼓堂と詰之門跡の石垣(2023.4.8)
太鼓堂(2023.4.8)
太鼓堂(2023.4.8)

町指定文化財 太鼓堂(隅櫓)
天保4年(1833)の再建といわれ,屋根には仙台藩一門の象徴として鯱があげられている。極めて素朴な建築で,仙台藩内における楼閣建築として,大変貴重な遺構である。また,この太鼓堂の下の詰之門石垣とともに涌谷館内における藩政期を偲ばせる唯一の建造物である。

現地説明板(平成14年 涌谷町教育委員会)

亘理氏の涌谷入りと涌谷伊達家

戦国時代の涌谷は,大崎氏の支配下にあり,涌谷城にはその支族である涌谷氏が拠っていたようだ。豊臣秀吉の「奥州仕置」により大崎氏が滅んだ後,葛西大崎一揆の混乱を経て,天正19年に伊達政宗が米沢から岩出山へ移封されたのに伴い,涌谷には亘理氏が入ることとなった。亘理氏は,長きに渡り宿敵・相馬氏の押さえとして活躍してきた家である。涌谷城が近世城郭として,城下町と併せて整備されたのは,これ以降のことと考えられる。

二の丸の先端から涌谷城下を望む(2023.4.8)

亘理氏はやがて姓を伊達に改め伊達家一門・涌谷伊達家として,明治の世を迎えるまで長きにわたって涌谷の地を治めることになる。その間,史上有名な出来事として野谷地開発をめぐる争いと藩内の権力闘争が絡み合う「伊達騒動」がある。歌舞伎「伽羅先代萩」に代表されるこの事件を題材とした多くの物語では,涌谷伊達家の安芸宗重が正義派として描かれる。騒動は,江戸での評定の場で,敵役・原田甲斐に斬殺され騒動は終焉を迎える。涌谷城本丸跡に位置する涌谷神社には伊達安芸宗重が祭神として祀られている。意を決して涌谷を出立し江戸に向かう際の伊達安芸の姿が胸像となっており,今も涌谷の地を見守っている。台座の「盡忠」の二文字は,幼主・伊達綱村が伊達安芸の死後に,その忠義を讃えて贈った自筆の書の写しであろう。

伊達安芸宗重の胸像(2023.4.8)

涌谷伊達家の領地は,はじめ8850石であたものが,その後1万石,寛永21年(1644)には2万石,万治2年(1659)には2万2千6百余石となっており,大名並みの石高を有していた。明治5年の涌谷城取り壊しに際し,村長が宮城県庁に提出した「旧館巨細調書上」には,大小21棟の萱葺の建築物や,門,土蔵などがあったことが記されている。おそらく,その姿は壮観であったことだろう。

涌谷城の縄張り

涌谷城は舌状台地の先端に細長く築かれた城である。前面には江合川がながれ,北東には深い谷を抱え,本丸の北は堀切によって背後の山との間が区切られている。江合川の堤防から望む二の丸の崖は,高石垣くらいの高さがある。縄張りに,さほどの複雑さはないものの,なかなかの要害の地に見える。

涌谷大橋橋より城跡を望む(2023.4.8)

武家屋敷の遺構

大手門から中の門へと向かう途中右手に涌谷伊達家宿老・千石家の屋敷跡があり,茅葺の薬医門が残されており,往時を偲ばせてくれる。

千石家の薬医門(2023.4.8)

千石家よりもさらに,涌谷伊達家の家中屋敷の様子を知ることができるのが佐々木家住宅である。城下から東に外れ,米山に続く街道沿いに残されている。主屋だけでなく,広間,板蔵,棟門,厩舎などの建造物に加え,庭園や屋敷林が全て残っており,武家住宅の様子を知る貴重な遺構となっていて,必見の文化財といえる。先に紹介した「旧館巨細調書上」によれば,涌谷城中の建物も全て萱葺か木羽葺であったようだ。規模感は違えども,二の丸に建ち並んだ建物の様子を思い描く際にも参考となるだろう。

佐々木家住宅棟門(2023.4.8)
佐々木家住宅(2023.4.8)

戊辰戦争と涌谷城

幕末,尊攘派・佐幕派に二分され混乱する状況は,涌谷においても例外ではなかったと思う。伊達家一門で2万石以上もの石高を有する涌谷伊達家は藩論に従い,福島方面の戦いに従軍,白河口の戦いに敗れてからいったん涌谷に帰還した。その後,仙台藩からの使者を切り,奥羽列藩同盟を早々に裏切った秋田藩を攻め,横手城を落とし,角館を攻撃しているところで仙台藩が1868年9月15日に降伏。仙台藩の戦いは終わり,涌谷の兵も栗駒山を越えて帰還することになったようだ。攻め立てていながらの突如の帰還命令,冬に差し掛かろうとする季節の栗駒越え,兵たちの胸中はいかばかりだったであろうか。

秋田口の戦いでは、仙台を脱出した奥羽鎮撫使が盛岡を経て秋田に入り、秋田藩・新庄藩を味方につけて同盟軍に対抗させました。7月、涌谷勢は8小隊が秋田領内に攻め入りました。横手城を落とし大曲へ向かう途中、秋田藩の奇襲に遭い、小隊長米谷周蔵ほか3名の犠牲者がでました。しかしその後も進撃を続け、雄物川沿いに秋田に向かう一隊と、角館を攻撃する一隊とに分かれて戦いました。涌谷勢は角館攻撃に加わり、西軍・秋田軍を攻めたてました。しかし、9月16日、藩からの撤退命令により、退却。涌谷勢は佐沼勢などとともに晩秋の栗駒山を徹夜で超えて9月24日に帰国、仙台藩の戊辰戦争は終息したのです。

涌谷町ホームページ/町の紹介/わが町涌谷の歴史

戊辰戦争の後,仙台藩が大きく領土を減らすと,涌谷城には明治政府により涌谷県庁が置かれ,それに続く登米県の県庁舎として機能していたようだ。明治4年の秋に登米県が廃されると,翌年には建築物が皆取り壊されたというが,太鼓堂は残ったのであろう。県庁が置かれた時点で仙台に移り住んだ涌谷伊達家の仙台屋敷は,現在の西公園あたりである。

明治元年(1868)、仙台藩は28万石となり、遠田郡は登米郡・志田郡の一部とともに土浦藩の取り締まり地となりました。翌年3月に「涌谷県」、8月には「登米県」と改称し、県役所は涌谷要害屋敷(現城山公園)に置かれました。

涌谷町ホームページ/町の紹介/わが町涌谷の歴史

明治元年12月,土屋相模守取締地となり,藩政時代277年の間,伊達安芸家累代の居館であり,政庁でもあった涌谷要害は,維新政府の県庁となった。旧館主伊達胤元は,旧姓に復して亘理元太郎と改,仙台屋敷に移り住んだ。2年3月末,土浦藩士奥田図書は権知事として涌谷要害屋敷に入り,涌谷県役所を設けた。
2年8月,涌谷県に栗原県の一部を併せ登米県が置かれ,涌谷要害を県庁とした。4年11月,登米県が廃され,翌5年涌谷要害の建築はみな取り毀された。

『日本城郭史研究叢書2 仙台城と仙台領の城・要害』小林清治編 名著出版 
仙台市 西公園の伊達安芸邸跡の標識(2023.5.21)


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