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立ち上がれ、俺らが松本。サッカーに生かされて日々を重ねる


※サッカーのお話がメインではありません。観戦を生きがいにすることで何とか生活している、鬱の闘病記です。明るい話ではありませんので御注意ください。







サッカー観戦に、しがみ付いて生きている。


もう、順位を数えるのは止めてしまった。
勝ち点も、得失点数も、見るのは止めてしまった。

だけど、だけど。試合を観ずにいられない。無関心になることは、できない。

毎回、それを見ることを小さな目標として、私は今、何とか生きている。そんなサポーターだ。



私は今、鬱を患っている。

正確には、いわゆる『鬱病』ではない。一応の診断名はついているが、恐らくは便宜上のことだ。分かるのは、自分が、生活に支障を来すほどにひどい精神状態であるということだ。

昨年、離婚をした。生活の全てが一変するような出来事があった。
とても仲の良い夫婦だと自負していた。一緒にサポーターになって、二人で行ける全てのホームゲームに行っていた。一緒に行かないアウェイは無かったし、福岡も、札幌も、一緒に飛んだ。当然のように、家族単位でシーズンパスを購入していた。

コロナ禍になった頃と時を同じくして、坂を転がるように夫婦関係が破綻した。
そのことをきっかけに、生活の全てがひっくり返った。生活だけではない、人生設計も、価値観も、精神状態も、それまでとは全く様変わりした自分自身を抱えて、私は未だに途方に暮れている。

『抑鬱状態』の診断書を貰うには十分な環境になっていた。否、まだ、続いている。


医療従事者をしていた。とてもじゃないが、人の命や生活を預かれるような精神状態では無くなった。
直ぐに療養に入った。何とか、しなくちゃ。一日も早く、夫との家を出て行かなくては。もう一緒にいられない。こんな私と一緒にいたら、この人まで病んでしまう。
優しくて、責任感の強い人だった。これ以上、夫だったその人に迷惑はかけられない。とにかくそれだけの気持ちで、単身へと引っ越しをした。

そこで全ての気力を振り絞って、それから、ぷつんと糸が切れたように、生きる力を失ってしまった。

自分を生かす。たったそれだけのことが、とてつもなく難しい。
食事を作ること、お風呂に入ること、掃除や洗濯をすること。当たり前にできていたことが、何ひとつ満足にできない。布団から起き上がることができないくせに、睡眠薬を飲んですらまともに眠れなくなって久しい。
だけど、私は、独りなのだ。自分で自分を生かさないと、守らないと、世話をしてくれる人はいない。


恥ずかしいことに、二回ほど、自殺未遂をした。


医療従事者、だった。端くれに過ぎないが、それでも命の重さを感じる機会は多い。
私は、自分を止めることができなかった。コロナ禍でこんなにも沢山、苦しんでいる人々が、命や健康を脅かされている人々がいるというのに。

ああ、病気だ。私には、自分の命の重さが分からない。

それが病気なのだと客観視できてしまうのは、皮肉にも私が医療従事者だったからだ。
正しくメンタルクリニックの門を叩けたのは、自分が病んでいることが分かるからだ。


比喩ではなく死にそうになりながら何とか乗り越えた冬が明けて、またJリーグの季節が始まった。

連れられて、久しぶりに行ったホームゲームは、楽しかった。
逆だ。楽しい、という感情が、私には久しぶりだった。

こんな状態になっても私は、このクラブが好きだ。ずっと、このクラブを見ていたい。どんな時でも。

ずっとずっと低迷しているクラブに、私はきっと、自分のことを重ねて見ている。環境がガラリと変わって、思うように行かなくて、やりたいことも見えなくなって。どうにかしがみ付いては、泥臭くもなり切れず。
これから、だったはずなのに。

せめて気持ちよく勝ってくれたら、少しは気分も晴れるのかな、なんて。毎試合のように思う。



医療従事者に戻ろうとした。理由は至って単純で、単身生活の私は、生計を立てないことには暮らしていけないからだ。
なのに、戻れなかった。全然、心も身体もついてこなかった。
患者さんの安全を脅かすようなことは、あってはならない。そして、私自身の命や心、身体も。

退職という苦渋の決断して、私は自分に休息だけを課している。何も頑張らないで、やりたくないことを一切しないで、ただ生きているだけでいいという努力を、今している。
これもまた、とてつもなく難しいのだ。ただ過ぎるだけの日々が、つらい。

趣味は多いほうだった。観戦はもちろん、こうして文章を書いたり、絵を描いたり。写真だって撮るし、旅行だって好きだ。数え切れないほどにあった好きなものが、何ひとつ楽しくない。心がまるきり鈍感で、何も響かない。

無彩色な日々の中で、毎週おとずれる緑色だけが、いまの私には鮮やかに見えている。

好きとか、もはや、そういうのじゃない。サポーターなのだ。習慣でDAZNをつける。勝っているとか、負けているとか、気にしない。得点すれば「おっ」と色めく。失点すれば「ああ」と溜息。
週末に、山雅を観ること。来週になれば、またゲームがある。ただ観る。それだけだ。

鬱病の人と「先のことを約束する」というケアの方法がある。自殺させないために、小さくても生きる目的を与えるために、である。
毎週おとずれる緑色が、私の、私との約束だ。


私は、松本山雅FCに、命を救われている。


今の私に何よりも必要なことは、休養だ。だって、何もできない。何を食べても美味しくない。睡眠だって、まともに取れない。身体が重くてたまらない。

でも、私は、孤独がなによりつらい。


ボランティアをしたいと思った。
たっぷりある耐えがたい一人の時間の中で、今の私の生活の中で唯一色づいて見える、愛すべきクラブのために。そして、自分のために。
幸いにして、体力は少し戻っている。気負わないで、何かの役に立って、誰かと関わりながら、自分の価値を認めたい。

そう思って、体験ボランティアに応募した。
ああ、これで、まだ来週まで生きられる。生きる目的がある。

ウルトラスの、自宅収録のチャントの企画を目にした。歌いたい。そう思って、直ぐに歌った。
ああ、私は、何かのために必要なことをしている。生きていて、いいんだ。

できることから、ひとつずつ。



降格圏とか、残留争いとか、私にはあまり重要ではない。私は、ただ山雅が毎週試合をしてくれさえすればいい。
勝たなくていいとは言わないけれど、今の私にはそれが精一杯だ。

あんなにも私を熱狂させてくれたこと、こんな状態でも忘れていない。そして、今でもこうして救い続けてくれている。私が、勝手に救われているのだけれど。
だから、そのために何かできることを。少しでもやりたいことを。そして、また、勝つところが見たい。
低迷しても、いつかまた頂を目指したい、共に。


私は未だに、一人でアルウィンに行ったことがない。


『立ち上がれ、俺らが松本。さあ全てぶつけようぜ、勝利のために。』


アルウィンに、一人で行く。
それもまた、私との小さな約束だ。

必ず這い上がる、この苦境を。



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