【雑記】さようなら、私の非日常

好きなものは非日常です。

アンダーグラウンドの世界が、アブノーマルな世界が、きらびやかなのに影のあるあの世界が、私の非日常でした。

考えてみれば当たり前の話で、アンダーグラウンドの世界で、アブノーマルな世界で生きている人にとっては、そこは日常でした。

毎日のように繰り返されるアブノーマルは、果たして本人にとってはアブノーマルなんでしょうか?

人体改造の本を読んでいて、SMのプレイでは去勢を「する」という行為自体に意味があるけれど、人体改造が好きな人は去勢をしたあとの「状態」に意味があるなんて記載があって、ああなるほどなあ、そういうことなんだなあと腑に落ちるのでした。去勢をしたあとの状態で過ごすと、それが当たり前のように穏やかであると、それはまさに日常です。当たり前ではなかった自分から、当たり前の自分への、日常への回帰。

「Oになりたい」とO嬢の物語を読むたびにしみじみ思う自分は確かにいるんですが、私の中ではロワッシーは決して自宅にはならないんだろうな。免許合宿くらいのロワッシー、合宿が終われば自宅で缶ビールを飲みながらYoutubeが見れるくらいのロワッシー。

ディズニーランドのキャストは、夢の国をどうしてずっと夢の国だと思えるんだろうなあ。才能なんだろうな。

SM婚やドミサブ婚への憧れを聞いたり、実際に実行に移した人たちの体験を読むたびに不思議に思ってしまいます。日常生活が非日常と地続きになること。でもきっと、そうしたアブノーマルが日常であることが当たり前なんだろうなあ。

私にはそういう才能がなくて、非日常はずっと非日常であってほしいと、考えてしまうのです。

「王子様とお姫様は結ばれて、そして永遠に幸せに暮らしました」の、「永遠に幸せに暮らしました」を享受できる人間と、できない人間がいて、私はまさに後者です。「王子様とお姫様は結ばれて、」のところを、ずっとずっと繰り返したい。

いつでも日常に帰れる担保がほしい。戻れる家がほしい。帰れる場所がほしい。そうじゃないと冒険ができない。

非日常は「非」日常で、日常がなければありえないものです。

非日常の遊びを繰り返せば繰り返すほど、アブノーマルな行為を繰り返せば繰り返すほど、それ日常に、ノーマルに近づいてしまいます。もっともっと、もっともっとと、加速する先には何があるのでしょうか。

なんてことを最近良く考えるのですが、本棚にあった大越考太郎の「月喰ウ蟲」を読んでいたら、変態を突き詰めて死んだ天才画家の話に出会い、死ぬかと思うのでした。

まさにOにしても、被虐の先には悲劇しかないのかしらね。

幸せになるのは難しく、簡単で、まさに人であることを辞めてしまえばいいだけ。

非日常を日常にする勇気のない私は、まだしばらくはお客さん気分が抜けなさそうです。

面白い本の購入費用になります。