8.17

Twitterでバズっていたのが、
sinとcosは「定義」だということを、もっとしっかり教えて欲しかったという内容だった。

共感しかない。

私はNewtonの『三角関数』を買って、工学系の父に解説まで加えてもらったことで、この知識が得られた。というか、理解ができた。

「定義」であると知ることは非常に大事だ。
時間を無駄にしない。

ただ、同時に、私にとってはもっと大事な意味がある。
別に私にとって、などと特筆しなくたって良く、恐らくみんなに当てはまると思う。

どうしてそんな考え方を編み出したのかを知るということだ。

数学は哲学である。
おびただしい数の人間に理解され認められる、矛盾の正しようが無いものなので、一般的な思想論などとは一線を画すようにも見える。
しかし、この自然界から数の概念を生み出してから今日まで、数式を通じて編み出された定理を眺めると、最初の体系が非常にしっかりとした哲学なのだと見受けられる。そういうわけで、私は数学を、算数の範囲含め全て哲学だと見なしている。

哲学には、人間の発想の転換や飛躍が顕れる。
数学では、定理の証明を眺めればわかりやすい。
他に、新しい概念を生み出す「定義」にも、それらが見て取れるのだ。例えばサイン・コサイン・タンジェントなのであろう。最終目標として波の動きを座標系で表すため、発想を飛躍させ、新しい概念としたという。

そんな発想の飛躍の原点、ここでいえば"波を座標系で表したい!"というものを知っているのといないのでは、三角比の定義の理解の深さも違ってくる。
知らなければ、いきなり何?という感じである。
ちなみに私はそうでした。

他に、例えばラジアン。
"その角度が円何周分(180°の何等分)なのかわかりやすい表記にしたい!"、つまり"大きな角度もわかりやすくしたい!"などという思いでつくられた定義であるらしい。
これは、数学の先生に一言「ね?わかりやすいでしょ?」と付け加えられると理解が深まる、気がする。

たとえばmod。
"文字を周期で捉えたい!"という思いからか生まれた概念である。あまりメジャーではないが一応教育指導要領には入っているようだ。

たとえば√(ルート)。ω(オメガ)。i(二乗して-1になる虚数)。
今までの数学の体系で表しきれないので新しく作った概念である。これらがあることで、数学という学問で考えられる内容が飛躍的に増えた。
これらは全て、歴史上の数学者たちが生み出すまでのはっきりとしたエピソードが残っている。虚数なんか存在しないのによく見つけたな、と思ってしまうけれど、エピソードを辿ればなるほど必要なわけが分かる。

このように、数学に「定義」は付き物である。
なんせ全て人間が考え出したのだから仕方あるまい。

そして、定義が生まれるまでの過程がわかると、定義の存在理由がわかる。
定義がどうしてつくられたのか分かれば、理解が深まる。

Twitterの投稿主の方の発見から一歩進んで、その定義がつくられた時代背景、歴史的経緯を知ることが、哲学である数学にはこと大事だと思う。

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私の小学校の校則のひとつに、
「子どもだけで電車に乗って出かけてはいけない」
というものがあった。

私はこれをなんとも愚直に守っていた。
なぜそういう決まりになっているか考えず、云われたから従っていたのだ。

しかし、中学受験をするための塾の講習が隣の駅の塾舎で行われるというので、最後の1年は校則を破った。

私は、校則で固められた壁の外に関して甚だ無知であった。
この世に○○線、と路線が沢山あることを知らなかった。
どんな電車に乗っても、駅があるならどこへでも行けると思っていた。
JR以外にも電車の会社はあると知らなかった。

初めてたった1人で電車に乗るとなった時、ひどく不安に襲われたのを覚えている。
中学校では片道2時間近くかけて登校する同級生もいて、電車の乗り換えの話をされる度知らないことだらけで新鮮だったことを覚えている。路線会社すら跨いで乗り換えをしていることに、なんとも精神年齢の差を感じたものだった。

中学受験に受かったからいいものの、知らないで徒歩圏内の中学校に行っていたら、私はいつこの事を知れていたのだろうか。

厳しかった小学校の校則になんとなく憤りを感じたのを、ふと思い出した1日だった。

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