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なぜ、私たちは「五つ子」を見分けられるのか?

 アニメ作品に登場する人物たちは現実の世界とは大きく離れた身体的特徴を持っている。しかし、そのような登場人物の見た目は現実世界のみならずその作品が舞台とする世界(「物語世界」)からも乖離したものとして描かれている可能性がある。

 それを示す例として『五等分の花嫁』というアニメ作品が挙げられる。この作品は一人の青年を中心に「五つ子」である五人の少女との恋を描いたものである。

 注目すべきはこの物語に登場する五人の少女たちの描き方にある。この作品で五人の少女は一部のシーンを除き異なる髪色と声色(声優)によって描かれており、視聴者はどのキャラが誰かが区別できるようになっている。しかし、物語中の登場人物らは主人公の青年をはじめ彼女たちを同じ髪色の同じ声色として認識しており、その区別は少女たち当人や家族以外にはできないほど似たものとされている。

 つまり、『五等分の花嫁』の映像を通じて視聴者が見ているのは物語世界の少女たち本来の姿ではないのだ。視聴者が見る五つ子は映像表現によって分別可能となった少女たちの姿なのである。

 これは映像作品における「語り手」が誰であるかといった問題に直接関わる話であろう。映像作品はナレーションが多用された物など一部の例外を除き一般的に語り手が誰かということがわかりにくい。しかしながら、こうした映像表現は『五等分の花嫁』のそうした見えない語り手の存在をたしかに示したものであると言うことができる。視聴者は語り手の視点より五つ子を見分けることができるのである。

 残念ながら私はこうしたアニメ作品に対しての物語論の適用について多くの知識は持たないためこれ以上の分析をここで行うつもりはない。ただ、この映像表現というものがアニメの世界と私たちが生きる世界とを繋ぐ重要な役割を担っていることは確かであるし、冒頭で述べたアニメの持つ独特な表現もまた

 アニメ作品の映像表現力はまだまだ向上してゆくだろう。その中で映像がどのような視点から描かれたものであるかを分析することは作品のより深い理解、新たな面白さの発見へとつながるに違いない。

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