『斜』めに『視』る。
「あんた、ボーッとしてる時『斜視』になってるから気をつけなさい。」
母親に言われたのは去年の冬。
えっ、自分はそんな癖があるのか、気をつけよう。と何となく意識をするようになった。
ちょいと話はそれるが、僕は幼い頃から『モノが2つに見えること』がある。そしてそうなってる時は頭がぽやーっとなって無心になれて心地が良い。この感覚は多分物心ついてからずっと好きでたまに故意でやったりもしている。
母親に『斜視』を指摘されてから、僕はこの感覚にならなくなった。なぜならあまりボーッとしないように意識したからだ。
でもある時、禁断症状が抑えられず、また『モノが2つに見える』ようになりたくてあの感覚に自分で入った。
その時だった。
僕を見た母親が「あんた、また『斜視』になってるよ!」と言うのだ。
ここまで読んでくれた人はおそらく「何言っちゃってんのコイツ?」「なんで同じことしてんの?」と思っただろう。
ただその時僕は腰を抜かした(ほど驚いた。)
実を言うと、僕は今まで、
「斜視」というのは「視界が斜めになること」だと誤解しており、「モノが二つに見える」現象とはまったく別モノだと考えていたのだ。
つまり去年の冬、初めて僕の頭に「『モノが2つに見える気持ち良い感覚』を味わうと『斜視』になってしまう」という因果関係がすり込まれた。
だって『斜視』って『斜めに視る』って書くじゃん…と。
この事実は僕にとって青天の霹靂。
つまり僕は幼い頃から『斜視』だった可能性が高い。
僕は今まで『モノが二つに見える感覚』は自分にしかない特殊体質だと思ってあまり人に言わなかった。
神様が自分に与えた特別な感覚だと思っていたものは単なる眼精疲労によるものだったことが分かった22歳の男の落胆は計り知れない。
昔もこういう事があった。
足の親指をグーーッと前に押し出すと土踏まずがピキーンとして気持ちが良い。これを家族に言うと、「それどうやってやるの?」と言う反応。僕にしかこれはできない事実が発覚した。
この時もまた、心でガッツポーズをした。神様はまた僕に特別な技術を与えたな、と。
高校生のある時、不意に思い立ってスマホで「親指 伸ばす 足の裏」と検索すると(この時点ではきっと検索してもヒットしないだろうと思っていた)、
「扁平足の人は土踏まずの筋肉が伸びている状態なので疲労がたまりやすく、つりやすい」
「(知恵袋で)土踏まずをつらせるのが気持ち良いんですが、私は変態でしょうか?」
など、次々ヒットしやがるではないか。
「え、じゃあこれ単純に扁平足で疲れが溜まりやすい足の裏をつらせるのが気持ち良いだけの変態が僕だっただけ?」
と激しくうろたえたことは今でも覚えている。
確かに家族で扁平足は自分だけだ、この感覚を訴えたところで分かるはずがない。
またもや神様に裏切られたのである。
世界で唯一自分だけに与えられたと思っていた感覚は身体構造上の性質さえ当てはまれば誰でも起きうる事で、もっと言えば、神様は何も特別なことはしていないから裏切られただのと喚く権利もない。
僕はどこか他人と違っていたい、自分だけのアイデンティティが欲しい、と思い過ぎる気持ちは時に謎の自己催眠を起こす。単なる身体の特徴ですら特殊体質だと思い込んでしまう。
もっと早くこの現象についてスマホで検索していれば、親ではなく友達に聞いてみていれば、もっと早く自分は普通の人間だと気づいたのかもしれない。
今はもう、自分が斜視であることもつりやすい扁平足であることも自覚している。
でもまだ心のどこかで、神様と自分しか知らない特別な感覚があるのではないかと考える自分も居たりして。
久し振りにこんな長文を打った。
目が疲れたのでまた神様がくれた『モノが二つに見える感覚』に入ろうかな。
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