なぜなのか?
以前からもやもやしていたことで、ふと、明文化しておきたくなったので、書く。
わたしは食べものの好き嫌いがある。Aという食べものが嫌いで、食べたくはない。Aの味や食感がどうこうではなく、ただただ嫌いなのだ。
食べものの好き嫌いがないひとには、その感覚はわからないようだ。「食べてみればいいのに。おいしいよ」と言う。
美味しかろうがまずかろうが、嫌いなので、すすめないでほしい、と思うことがよくあった。善意だとしても、繰り返し言われると、もはや善意を装った嫌がらせなのでは?という気持ちになった。
だがそのころは「自分にない感覚がわからないひとの、ひとりよがりな善意」と理解していた。
わたしは子どものころ、きのこ類がきらいだった。とにかくきらいだった。たぶん生理的にだめだったんだと思う。
だけど、気がついたら食べられるようになり、好きになった。今ではローカロリーなので、食べられる機会があれば積極的にいただく。
今、とても仲良くしてもらっている若い友人に、きのこを嫌いな子がいる。ああなるほど、と話を聞いて理解した。そして言った。
「じゃあ、一緒に食事をするとき、あなたの食事の中にきのこが入っていたら、わたしにちょうだい」
彼女は快諾してくれた。
自分にとって今やきのこはおいしいものである。だけど彼女は昔のわたしのようにきらいなのだ。だったら、食べてごらん、おいしいのに、と言っても通じないのはわかっている。だいたい自分が言われるのがいやな台詞だった。言うはずもない。
が。
……先日、とある小説を読んでとてもおもしろくて感銘を受けた。だけど周りに読んでいるひとがいないので、感想を探して読んでみた。ひとがどんな気持ちになったか、知りたかったのだ。
海外の作品だ。海外の作品には、ある傾向が頻繁にみられる。それをαとしよう。わたしはそのαという傾向がきらいだ。きらい、というひとことで言い表せないほどに苦手で、その傾向に当たらないように気をつけて歩くくらいだ。自衛というやつだ。
ある感想で、「海外の作品なのにαがないのがいい」とあった。やっぱりαを苦手なひとは多いんだなあ、と思った。だが、次の段落で目を剥いた。
「だけど別作品でαが出てきて、読んだらおもしろかったので、苦手なひとはその別作品を読めばいいと思う」
?????
「苦手」や「きらい」はアレルギーではない。摂取すると命に関わるわけではない。
この感想を書いたひとは、自分が苦手だった対象を、摂取したら苦手意識が消えた、だから摂取することを勧めているのだ。……もやもやした。
いやもうどう考えてもその思考に至った経路がさっぱりわからない。
自分も苦手だったという自覚があるのに、「摂取してみたら平気だったから、苦手でも摂取するといい」という勧誘は、あまりにもひとりよがりすぎないか? それとも、そんなふうに考えてしまうわたしが狭量なのだろうか。
自分が苦手だったときの気持ちを憶えていないのだろうか。それを勧められたとき、いやだな、と思ったり、軋轢を生じさせず躱すよう苦心したことはなかったのだろうか。
なのに勧めるとは、あまりにも想像力に欠けていないか?
αがよいものであり、それを著した別作品が素晴らしいので布教したいというなら、百歩譲ってわからなくもないが、苦手なひとに勧めるのは逆効果でしかない。せめて、αが平気、好き、というひとに勧めるべきではないだろうか。
この世には善意のひとがいて、知らない何か(映画やマンガや小説やドラマやゲーム)に接触しようか否かと躊躇すると、それについてよいところをあげて、おすすめしてくれることがある。そういう場合は、とてもありがたいと思う。
だが、求めてもいない、「苦手」や「きらい」なものを「それは自分にとってよいものだったから、試してみるといいよ」と、強めに勧めてくるのは、とても善意とは言えない。
勧めている当人は、相手のことを考えているのだろうか? べつに、四六時中、相手のことを考えろ、という話ではない。
きらい、苦手、と言っているものを「(自分にとっては)いいよ」と勧める……ひとによっては、そう発言する相手をも遠ざける理由にならないか?
もっともたちがよろしくないのは、勧めている当人はあくまでも「善意」なのだ。少なくとも「悪意」はないのである。しかし、自分の視点で受け容れたものを、その視点を持っているかどうかも不明な他者に勧める。
それは決して善ではないのではないか?
この世でいちばんたちがわるいもの……わるいとはっきり言ってしまおう。
それは、自分自身が、自分自身の振る舞いが「正しい」「間違っていない」「悪くはない」と信じて疑わないひとだ、というのは、だいぶん前からしみじみと思い知っている。なんならナチュラルにモラハラする身内が未だに近くにいるので、こういう感覚を得たのかもしれない。
正義に酔っ払っている、とまでは言わないが、自分の言動が「間違っている」という想像をしないひとのほうが、この世は多いのだな、としみじみ感じることがある。それが今回書いてきた「自分が苦手だったものが意外によかったので、求めてもいない、それを苦手だという過去の同類である相手に安易に勧める」行為をうっかり目撃してしまったときだ。
それ、ふつうにヘイトためるから、しないほうがいいぜ……と思いながら、めったに口に出して言う気はないのだけど。
そして、自分もそうしないように気をつけたい。すでにやってるかもしれんが。
まあただ単にわたしが偏屈なだけなのかもしれない。
だけど序盤に書いた「食べものの好き嫌いがないひと」……つまり「弱点がない」ひとは、そういう「弱点のあるひと」に対して、かなり鈍い反応をするなあ、と感じることは多い。食べものに限らず、ネガティブな感情……たとえば「憎しみ」を持ちにくいひとは、他者のネガティブな感情に疎いように感じる。
これは、恵まれたひとが恵まれていないひとの気持ちに共感しづらいのに似ている気がする。
いろいろな意味で恵まれたひとは自分が恵まれていることに気づいていない。それが「ふつう」だと思っている。だから、自分が関わった相手が「自分ほど恵まれていない」とは想像もしないのだ。
それを「悪」とまでは断じないが、「いろいろなひとがいる」ことを念頭に置けたら、いいのかなあ、と思うことがある。もちろん自分もだ。自分も、思いもかけないところで「恵まれている」らしいことに、最近うすうす気づきつつあるので……モゴモゴ
弱点のあるひとに合わせろとまでは言わない。「そういうひとがいる」という想像程度でもしてもらえたらいいのに団。