ちょっとズルい楢崎係長とコーヒーの話
始業2時間前に出社するくせが抜けなくなってしまった。
入社当初は一緒に来てくれていた同期も、ひとり辞め、ひとり転勤しという具合。
営業事務の後輩だって最初は気をつかってくれていたけれど、遠慮のかけらもなくなった今は
「浅野さん、まじめすぎじゃないですかぁ~?」
なんて、遅刻ギリギリに出社してくる。
でも、最近「早朝出社仲間」ができて、ちょっと嬉しい。
「浅野さん、おはよう。今日も早いなぁ」
楢崎係長は、2カ月前に関西から転勤してきた。
ちょっと細身で、チャコールグレーのスーツがよく似合う。
目じりに「くしゃっ」と皺が出来るように笑うのが、なんか、「ズルいなぁ」って思う。
いつも通勤途中にコーヒーをテイクアウトしてくる。
そして、
「はい、これが浅野さんの分ね」
わたしの分まで買ってきてくれるのだ。
「いつも、すみません。ありがとうございます」
「ええねん、俺が飲みたいだけやし」
楢崎係長は、小さく「アチッ」と言いながらコーヒーをすすっている。
毎日こうしてコーヒーを買ってきてくれるものだから、最初は遠慮していたんだけれど、もうこっちが根負けしてしまった。
他の人が出社するのを待ちながら、朝日が差すフロアでなんとなく雑談する時間が、ちょっと、楽しい。
「今日、ネクタイがピンクなんですね。いつもオシャレだなぁって思います」
「なに?ありがとう。なんも出ぇへんよ」
楢崎係長がニヤリと笑う。
「いや、そうゆうんじゃなくて。奥さんが選んでらっしゃるのかなって」
「あれ?言うてへんかったっけ、俺、ずーっと、ひとりよ」
「えっ、そうなんですか?てっきり」
てっきり、女性が選んでいるんだと思っていた。
だって何というか、身だしなみが全体的にちゃんとしていて、スマートなのだ。
仕事の指示の仕方ももちろんだけれど、物腰がやわらかくて、穏やかで。
こういう人はモテるよね、すごく良い奥さんがいるんだろうなぁ、なんて思ったりして。
「ハンカチとかシャツとか、スーツのセンスとか、素敵なので……てっきり」
「『てっきり』、ねぇ。浅野さんにずっとそんな風に思われてたんかぁ。それは、心外やなぁ」
楢崎係長は、おおげさに残念そうな声を出した。
「心外、って。オシャレだなぁって思っていただけですよ」
「せやけどなぁ、こっちは、ずーっと気を使ってたわけやで?
浅野さんはどんな色が好きかなぁとかさぁ」
「えっ?わたしですか?」
「そう、あなたよ」
コーヒーを持ったまま、人差し指で差される。
「そのコーヒー、どこで買うてると思う?」
「楢崎さんの、通勤途中、ですか?」
「ううん、神保町なんよ」
二駅も離れたところだ。
「二駅先で降りてね、買うてきてるんよ。なんでやと思う?」
「……そこのコーヒーが、お好きだから、ですか?」
朝日が逆光にようになって、楢崎係長の表情が見えない。
「きみ、前に、深煎りのコーヒーの方が好き、って言うたでしょ。
この辺で、深煎りのがうまい店、そこしかないんよ」
「俺がそこまでしているの、なんでやと思う?」
まだ、フロアに人は来ない。
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