信じるものは、救われる
こんにちは、末吉です。
まず、はじめに。
酔っています。
でも、だからこそ、本音です。
ほんとうは、「そうじゃないんだよ」と言いたいけれど、どうしてもそうとは言えないことがいくつかあります。
そのうちのひとつが、これです。
何かを捨てなければ、何かを得られない。
大きなコップを握ったまま、同じ手でリンゴを手に取るのは無理なのと、同じことです。
いまの延長線上にはない何かを得たければ、いま持っている何かを捨てる必要があります、往々にして。
とりわけ、得たいものが大きければ大きいほど、その傾向は強くなります。
いま、あなたには、得たいものはありますか?
こうしたい、こうなりたい、そういう望みや希望はありませんか?
夢、目標、やりたいことがあるけれど、ずっと実現しないままの人もいるかもしれません。
でも、それは、あなたに能力がないからではありません。
捨てられていないだけです、不要な何かを。
欲しいものを考えるだけではダメです。
あなたが欲しいものを手に入れるために、何を捨てる必要がありますか?
たとえばnoteの毎日投稿をしたいなら、書く時間を確保する必要があって、テレビやYouTubeを見る時間や、最近はずいぶん減ったとは思いますが、飲み会などの時間を削る必要があるでしょう。
もしも、もっと大きな何か、たとえば文章で食べていくとか、サラリーマンから独立するとか、そういうものを手に入れたければ、またそれに応じて捨てる必要があるものも増える、というわけです。
あなたは、何を捨てますか?
得たいものだけではなく、何を捨てるのかをセットで考えるクセをつけてみてください。
欲しい現実のために、お金を投資することもまた、捨てることの一種だったりします。
年収ウン億円というメンターが、「一円もビジネスに投資できないという縛りがあったら、僕はこの何十分の一も稼げないと思うよ」と言っていったのが印象的でした。
そこに空白やスペースができるからこそ、欲しいものが入ってくることができるものですから、未練より希望に目を向け前に進みましょう。
私も定期的に、捨てています。
あるとき、無理くりフランス移住を決行してしまったり、旅するように暮らすというのもそうでしょう。
未来の保証は、ありません。
だから、捨てられない気持ちはめちゃくちゃわかります。私も、まーーー、悩みますから(笑)。
だから、何をどのくらい捨てるかという度合いというか塩梅は、人それぞれだと思いますが、未来の安心や保証を捨てた先に、おもしろい未来は待っていたりするんですよね。
保証はないから、強くは言えないのが、なんとも煮え切らない感じではあるのですが、ね。
信じるものは救われる、が合言葉です。
末吉より
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