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麒麟は来なかった。でも気球が来た。

為政者が不在の時、仁のある政治を行うために降り立つと言われる麒麟。その麒麟がこなかったらしい亀岡では最近気球が来ている。麒麟の代わりにやって来たらしいその気球は一体何のために降り立つというのだろうか?

そんなことを考えながら明智光秀が切り拓いた丹波での1年を振り返ってみようと思う。

いつもの372、いつもの景色

2020年3月。いつも通るだけになっていた国道372号線を走っていた時の話。それは久しぶりに播磨の空を楽しんだ帰りのことだった。コロナがにわかに猛威を振るう少し前のまだまだ肌寒い空気が漂う丹波国で一人の後輩がハイエースを走らせながらつぶやいた。「こんだけ広いなら丹波も飛びたくないっすか??」その言葉に僕は虚を突かれた。

みんな思ってはいたけど、みんな面倒でやってなかっただけなんだろうけど、確かに、飛びたい。

その気持ちをいとも簡単に、それも僕をけしかけるようにして後輩は言ってのけるのだ。あまりにも唐突だったからか、僕自身最初はあんまり乗り気じゃなかった。だけど、GoogleMapの衛星写真を見れば見るほど飛んでみたくなってきた。じわじわいたぶるように「どうだ?飛びたいだろ?いいところだろ?」と山とわずかな田園地帯を映すその衛星地図は投げかけてくるのである。こうなるともうどうしようもない。空飛ぶ生き物は困ったものだ。

麒麟も自分の想いとは関係なく飛びたいから飛んでいるんだよな・・・?そう思わないと自分が惨めな気がしてならない。でもたぶん違った。

人が街をつくり、街が気球を育てる

頭によぎることがあった。とあるエリアで学んだことである。気球をはじめて飛ばしてからまだ間もないそのエリアを管理する”とある人たち”から言われずとも背中から学んだことだ。「誰のために飛ぶのか」―これはエアマンとしての永遠の課題であり、ほとんどの人が考えていないことでもある。嘆かわしい。まだ自分のためにしか飛べていなかったあの頃の僕は、’’とある人たち’’の街を創るこの想いに触れ、多くのことを学んだ。

その後’’とある人たち’’とその街が辿ってきた時の流れからしても、その運命は『春秋』に言う、「獲麟」のようなものであったに違いないし、だからこそ、その苦しみは僕たちの学びに変えてどこかで引き継がなければならない。そして「飛ぶ」という形でなんとか残さなければならない。

突然訪れた丹波の空との出会いはそういう想いを形にする絶好の機会といっても過言じゃなかった。そう、僕はただ飛ぶだけではなく、僕たち以外の誰かのためになるように飛ぶことにした。いつの日かその誰かが街のことを、そして気球のことを大事に大事に育ててくれると信じて。

背中で見せる、手を動かす

普段やる気がなく何事も進まないのに思い立ってから手が動くまではとてつもなくスピーディーな性格もあってか、そこからは一瞬だった。もともと別空域の通報書を出していた経験もあり、空港とのやり取りはすぐに終わった。気球の明日を切り拓いてきた多くの大先輩方にアドバイスをもらいながら後輩が作成したその通報書は、十日かかるところを一週間で通してもらうことにも成功した。上出来だ。

これで制度上何の問題もなく飛べるわけだが、この僕の決意を正しく伝えるためには不十分だ。「誰のために。」これを考えるとやることは明確だ。だから僕たちは、はじめて気球を飛ばすその街の人に少しでも迷惑がかからないように、少しでも多くの人に喜んでもらえるように、飛ぶ予定の街の関係団体へ事前に周知と挨拶回りに行った。後輩たちにはその手伝いでよく動いてもらった。彼らにはこの場を借りてお礼を言いたい。ありがとう。

あいさつ回りでは役所だけでなく地元の人たちのところにも顔を出した。事前に飛行プランを細かく10パターンほど定め、離陸地も数箇所押さえることにしたので地主や自治会にも足を運んだ。実際に足を運ぶと偶然ではあるが地元の有力議員や気概ある役所の方とも出会えた。ご縁はいつの時代も大事なものである。足を運ばなければこういう出会いもなかっただろう。

こうしたことは’’とある人たち’’の背中から学んだことではあるが、面と向かって正しく言葉と行動で伝え、ひとりでも多くのファンを増やさなければ、この先気球が飛べる保証なんてどこにもない。そういうぎりぎりの中でやっていることを後輩たちには学んでもらえたと思っている。

気球が来た!

そしてやってきた3月26日。前日に後輩たちが高い精度の気象予報をしてくれたおかげで無事フライトができたわけだが、田畑が広がる亀岡盆地に降ると、そこでも多くの人に声をかけてもらえた。別に飛んだ後輩のもとにはどうやら地元議員が喜んで見に来たようだ。写真撮影もいっぱいしたし、SNSにもいっぱい投稿してもらった。飛ばしてよかった。心からそう感じている。

31日。狭い盆地の町である篠山では市役所のプレスリリースもあり新聞数社に取材してもらうことになった。飛んでみると街の人が手を振ってくれる。SNSも大賑わい。幼稚園児が力を振り絞って喉を潰さんばかりの声で応援してくれる。とある中学校では校長先生の許可をもらって校庭に中間着陸をしたのだが、部活中の生徒や先生たちがみんな近寄ってくれて一緒に記念撮影なんかもした。部活の邪魔をしてごめんね。

丹波ってすごいあたたかい街だよね。つくづくそう思った。

丹波と、麒麟と、気球と

この丹波は戦国時代、信長に命じられた明智光秀が攻略し統一した。攻略には2年の歳月と多くの労力を要したのだが、それは「田の庭」を囲むように山々が丹波の国を覆い、そこに中小の武将が割拠していたからである。丹波攻略にあたり序戦で篠山盆地の南にある八上城主であった波多野氏に裏切られてから光秀は最後まで八上城を落とせなかった。それくらい厄介なところだったのだろう。そして2年の歳月をかけてやっとのことで八上城を攻略し丹波を統一した光秀は亀岡に城を作り丹波一帯を支配することになる。

その丹波攻略の難しさ、それは実際に飛んでみてよく分かった。丹波を横断するように切り立つ多紀連山や愛宕山は天然の要害そのもであった。八上城も気球からよく見える。そうした丹波の土地が生み出してきた歴史を一度に感じることが出来るのは気球だけなのかもしれない。この丹波を統一した光秀は、混乱を極める丹波に為政者として突如降り立った麒麟に他ならなかった。きっと信長を裏切ったのも仁ある政治のためだったのかななんて思ってみるのもいいかもしれない。

光秀がそうであったように、僕たちも、街の人たちになにか届けられるといい。そのために気球が降り立てることが出来るならこれほど嬉しいことはない。この混乱した時代に、この街に、麒麟は来なくても気球が来れば誰かが喜んでくれる。傲慢と言われてしまうかもしれないが、幼稚園から子どもたちが声いっぱいに叫びながら手を振ってくれたり、わざわざ子どもを連れて家族で写真を取りに来てくれたりしたことは、やってきたことへの自信と歓びを僕たちに与えてくれた。

気球は誰かのために飛んでいる。このことは忘れちゃいけないんだと思う。答えは人それぞれだろうけど忘れず、考え続けることが大事なんじゃないだろうか。

最後に、このどうしようもない思いつきと想いをたった2週間で形にしてその後もずっとみんなで形作ってくれている後輩のみんなにはここでお礼を改めて。ありがとう。これからも一緒に飛びに行きましょう。

とまあ取りとめもなく文章を書いてしまったがお話はここまで。新しい、安全で、健やかな時代が訪れるそう遠くない未来に、毎日丹波の空に「気球がくる」ことを願って終わろうと思う。では。

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