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溝跳び考~動物園とメッセンジャー~

 あけましておめでとうございます、丁_スエキチです。今年もよろしくお願いします。

 1月2日、あにてれでアニメ「けものフレンズ2」の一挙放送があり、Twitterでトレンド入りするなど、話題になりました。僕もハッシュタグをつけて実況しまくっていたので、トレンド入りを後押しする一員(一因?)となっていたようです。

 2年前のアニメ放送時は、インターネット上での評判も最悪で、回収されなかった伏線が山積していたので、(サーかばハピエン厨だった)僕もボロクソに言いながら斜に構えて視聴しては闇堕ちしていたものですが、ゲーム「けものフレンズ3」や池袋で開催された「けものフレンズWORLD」で怒涛の伏線回収が行われた、とわかっている今では安心感が違い、先日の一挙放送では(なんやかんやで闇の雑食オタクになった)僕的にも満足感のあるアニメ視聴ができました。「散々ボロクソ言ったけど、思いのほか悪くないじゃねーの」的な。
(まぁ正直なところ、たつき監督よろしくアニメ中で鮮やかに伏線回収して欲しかったけど)

 せっかくですし今回は、かつてアニメ「けものフレンズ」の流行時に #けものフレンズ考察班 のハッシュタグに熱くなった一けもフレファンとして、けものフレンズ2における冷奴(深読み考察)を投げておこうと思います。

 ずばり、1話と12話で描かれたキュルルの溝跳びについての考察です。


無柵放養式展示とジャパリパーク

 「動物王」の異名を持つ19世紀のドイツの動物取引商、カール・ハーゲンベッグをご存知でしょうか。

 幼い頃に親からホッキョクグマを与えられた、(ヨーロッパから見て)未開の部族の展示を動物園で行った、ブームスラングに噛まれて死んだなど、Wikipediaを見るだけでヤバい経歴の持ち主ですが、彼が動物王と呼ばれる大きな理由として、自らの私設動物園において無柵放養式展示を編み出したから、というのがあります。
 無柵放養式展示は、檻や柵を用いず、直接動物を見ることができる展示方法です。ハーゲンベック動物園で始まったこの方法は、日本国内であればみさき公園(閉園してしまいましたが)や多摩動物公園などで見られます。行ったことのある方ならピンと来るのではないでしょうか。

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 多摩動物公園で2018年4月撮影。写真下手なのはご愛敬。

 この展示方法のメリットは、檻や柵がないことにより、動物たちが開放的な空間で暮らしているように見えることです。そして鑑賞するヒトと動物の間に遮蔽物がないため、「飼育するヒト」と「飼育される動物」の支配-被支配の関係を薄れさせ、対等な関係に見せること、と言えるでしょう。しかし、本当に鑑賞するヒトと動物の間には何もない、ということはありません。両者を隔てるものは、柵ではなく、です。
 動物たちが飛び越えることのできない幅と深さを持った溝が、動物を鑑賞するヒト、ヒトに鑑賞される動物の空間を分けているのです。

 さて、話をジャパリパークに移しましょう。ネクソン版や漫画版、3で描かれるジャパリパークは、動物たちがヒトの少女の姿を得て、それまで取ることのできなかったコミュニケーションを取ったり、対等な友人になったりできる場所であり、それを売りにした動物園です。一般的な動物園とは異なり、ヒトとアニマルガールを隔てる物理的な溝は存在しません。言うなれば、無柵放養式展示を超えた、無溝展示です。しかし、ヒトの管理下にあるジャパリパークはあくまで"動物園"であり、それは"展示"の枠を出ません。

 先程、物理的な溝は存在しないと述べましたが、果たして、精神的な溝が存在しないと言い切れるでしょうか?

 勿論、ジャパリパークで動物やアニマルガールの為に働く人々の多くは、彼らを対等な存在として尊重しようとしていると思いますし、アニマルガールを支配しようという考えで動いてはいないでしょう。
 しかし、動物園という枠組みが、支配と被支配の構造から逃れることを許さないはずです。
 (作中では殆ど描かれませんが、)営業時のジャパリパークでは、来園客は動物そしてアニマルガールを鑑賞しに来ます。つまり見世物へ向ける「まなざし」という単一方向のコミュニケーションが確実に存在します。支配-被支配の象徴として挙げられる檻、柵、そして溝。そこに、「まなざし」という双方向ではないコミュニケーションから生じる精神的溝が加わるのではないでしょうか。
 対等を語れど、決して完全な対等ではない。見る側と見られる側の対比。管理する側とされる側の対比。ジャパリパークが動物園を名乗っている限り、ヒトと動物の関係性は、障壁が小さくなったとしても段差0の連続したものにはなりえません。別に非難してはいません、構造的に仕方のないことですから。

 では、もしヒトと動物あるいはアニマルガールの間の障壁をジャパリパークからなくすとしたら、どうすればいいでしょうか。


ジャパリパークが動物園でなくなればいいのです。管理するヒトも、観客もいない、動物園としての定義から外れた存在です。


危険極まりない溝を跳んで脱構築

 さて、パークが閉鎖されて2000年が経った頃、一人の"来園客のコピー"が目を覚まします。キュルルです。彼は何の動物なのか問われると「僕はけものじゃない」と言い、思い出せないおうちを探して帰ることを目的にサーバル・カラカルと共に旅をしました。残念ながらパークにヒトは(ヒトのフレンズを除いて)いないことが判明し、彼が当初望んでいたおうちはジャパリパークには存在しないことも理解したのですが(そりゃあ本来の彼はパークの外からやって来た存在だし)、最終的にパークで生きていくことを決意して、エンディングを迎えるのでした。

 ここで、彼の心境の変化について考えてみます。「僕はけものじゃない」と言った時のキュルルは、きっと"動物園の客"としての立場から発せられたものでしょう。彼はヒトと動物が完全に対等ではない、2000年前の動物園としてのジャパリパークからやって来たようなものですから、当然です。

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 仮に展示されているとしたって同じ土俵に立つつもりのない遊び半分のアトラクション(なかにはいってしゃしんをとろう!)

 しかし、彼は旅の中で様々なアニマルガールと出会い交流し、ヒトがもはや存在しないことに気づいていきます。自分が"動物園の客"ではないことにも。そして、最終的に自らの居場所をパーク内に見い出します。"動物園の客"としてのヒトではなく、パークの一員としてのヒトです。

 もはやパークは動物園ではなく、単なる場所です。支配-被支配の構図から解放された空間です。「僕はけものじゃない」と主張したとして、その場所では支配や優位性を引き出すことはできません。旅を通して、キュルルはアニマルガールと純粋に対等なヒトに"変化した"のです。

 サーバル達と旅を始めた1話で、キュルルは溝を飛び越えました。あれは、臆病な子供が小さな困難を乗り越える話だけではなかったのかもしれません。動物園に存在する支配-被支配の構造・見る側と見られる側の溝。キュルルが旅の中でそれを乗り越え、動物園の客からパークの一員へと変化していくこと。
 ちょっぴり冗長にも見えるあのシーンは、このことの暗示になっていたのではないでしょうか。

 アニメでは描かれませんが、彼はけもの達を繋ぐメッセンジャーになることを決意します。しかし、彼が繋ぐのはけものだけではありません。ヒトとけものを繋いでいるのです。動物園という枠から外れた時空だからできる荒技ですが、彼は動物園の支配構造から解放された、ジャパリパークで最初のヒトです。


溝のこっち側におかえり

 12話では、キュルルやフレンズ達と、キュルルの描いた絵によって生まれたセルリアンが崩壊寸前のホテル屋上で対峙します。セルリアンと戦えないキュルルは、元凶になる絵を持って安全なところへ避難しろと言われますが、友達を置いて逃げるのはイヤだと言います。すると親友のカラカルは「さてはアンタ、あそこを飛び越えるのが怖いんでしょ」とを指さし、そしてキュルルにしかできないことをしろ、と伝えます。キュルルはを飛び越えて、かばんさんの船の元へ避難するのでした。

 では、あの溝はなんだったのでしょうか?

 ひょっとすると、彼は再び動物園に存在する支配-被支配の構造・見る側と見られる側の溝をまたいだのかもしれません。戻る方向に。

 5話「ひとのちから」では、「ヒトは動物を思いのままに操ろうとした」という話が登場します。それはキリスト教的自然観に基づく「ヒトが神の代わりに自然を管理することの象徴」であったり、あるいはシンプルに「富や権力の象徴」であったり、そういった目的で作られた中世のメナジェリー(動物園の前身)を彷彿とさせます。
 
現在の動物園だって、動物福祉やランドスケープ・エマージョンを追求して動物を尊重しようと努力しているとはいえ、動物園である以上は動物を管理しようとしているという枠組みから抜け出すことはできません。
 溝の向こう側は、「ひとのちから」の世界、つまり動物を管理する世界です。

 かばんさんの船の上にて、セルリアンの原因は自分なのに、大好きな友達が闘っているのに、自分が無力であることに歯がゆい思いをするキュルルの元に、一匹のビーストが現れます。1話で強大なセルリアンをワンパンしていた、おそろしく強い、アムールトラのビーストが。

 そしてキュルルは「ひとのちから」を行使します。セルリアンの集団にビーストをけしかけるという荒技を使います。
 皮肉にも、彼は「自分にしかできないこと」として、「動物たちを操って戦わせ」ることを選択するのでした。

 キュルルは「自分にしかできないこと」を成し遂げるべく溝を跳び越えましたが、それは自分はアニマルガールと同じ存在ではない、ということを認めたのと同義かもしれません。アニマルガールとは別の、ヒトならではのできることは何か? 紙相撲で操るとかではなく、本当に動物を管理しようとすることです。「友達を助けたい」という、自分では解決できない欲望を、動物に託してしまうことです。

 先ほど、キュルルはけもの達、そしてヒトとけものを繋ぐメッセンジャーになる、と述べました。動物園という枠から外れた時空だからできる荒技ですが、彼は動物園の支配構造から解放された、ジャパリパークで最初のヒトだ、とも。しかし、彼はヒトとけものを繋ぐために、動物園の支配構造を再利用したのです。ヒトであるキュルルの思いを叶えるために、けものであるビーストを利用しました。

 対等なジャパリパークの一員から、「ひとのちから」を行使する存在に戻る/進むために必要な儀式が、あの溝跳びだったのかもしれません。


溝ガン無視メッセンジャー

 せっかくキュルルは溝を跳び越えて、支配構造の消えた動物園でフレンズ達と対等な存在になれたのに、ヒトであるがゆえにまた溝を跳び越えて動物を管理するヒトの側に戻ってきてしまいました。そんな状態では、ようこそジャパリパークへ(ただいまver.)をエンディングテーマとして流されても歓迎しづらいですね。

 でも救いはあります。
 なぜならキュルルは、もう溝を跳び越えられるのですから。

 けものフレンズ2の漫画版3、全てを終えた帰り道において、キュルルはまた溝を跳び越えています。サーバル達と一緒に、軽快に駆け抜けながら。

 サーバル・カラカルと旅をし、様々な出逢いを繰り返してきたキュルルにとって、動物園のこちら側と向こう側を隔てる溝なんて、もはや簡単にひとっ跳びできるものに過ぎないのです。そこに、メッセンジャーとしてのキュルルの希望を見いだすことができます。

 一般的な動物園において、動物は種類ごとに異なる展示場所にいるものです。そしてそれらは檻・柵・溝で仕切られています。しかしキュルルは、その溝を自由に越えられる存在なのです。それはつまり、けものとけものを繋ぐメッセンジャーとしての役割を果たすということです。
 もともとジャパリパークは異なる動物であったアニマルガールどうしが友達になれる不思議な場所であり、溝なんかありません。でも、勝手に引け目を感じてすれ違いを起こしてしまったり、動物だった頃の行動に囚われておかしな行動をとってしまったり、縄張り争いがきっかけで険悪な仲になってしまったり、ちょっとした心の溝が生じてしまうことはあるはずです。
 そんなとき、時には友人として、時にはヒトとして、溝の橋渡しをしてくれる存在、それがメッセンジャーであり、キュルルが見いだしたジャパリパークでの居場所なのではないかと思います。

まとめ

 キュルルが跳び越えた溝は、無柵放養式展示の溝、動物園における支配構造のメタファーであり、1話でそれを跳び越えたことは、彼の立場が動物園の客からパークの一員へと変化し、けもの達と対等な関係になったことを暗示しているのでしょう。
 一方で12話では、動物の管理を通じてヒトの思いを動物に託すという、ヒトにしかできないことをするために再び溝を跳び越えました。
 そして、自由に溝を跳び越えられるようになったキュルルは、対等な友人として、あるいはヒトとして、けものとけもの、ヒトとけものを繋ぐメッセンジャーとしての役割を果たしていくでしょう。


参考文献

 西洋の歴史や文化といった背景と比較しながら、動物園の文化的な歴史について述べている本です。動物園好きとして、めっちゃくちゃ面白い本でした。メナジェリーの歴史や意味、無柵放養式展示、動物園における支配構造や「まなざし」のお話など、今回のnoteの内容の殆どがここから来ています。

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