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多文化主義のアンサーはレゴルイよりビルとエルス ※ネタバレ有

 こんにちは、丁_スエキチです。

 先週金曜日、BEASTARSの22巻が発売されました(とか言いながらサムネは20巻。レゴシとルイなので)。BEASTARSは板垣巴留先生が週刊少年チャンピオンで連載していた漫画です。知らない? オオカミ男子がとあるウサギと関わることで始まる、動物たちの青春群像劇ですよ。愛であったり、本能であったり、何が正しいのかに悩みもがき苦しみそれでも前へ進んでいく若き獣たちが織りなすヒューマンドラマですよ。読みましょう。読め。
 あとオオカミの女の子のジュノちゃんめっちゃかわいいから読んで。読め。
 アニメ化もされています。この冬、フジテレビやネトフリで二期やってますよ。タイムリーだから見ましょう。見れ。


 ところで、昨年話題になった現代ビジネスの「マンガ『BEASTARS』を多文化主義から読み解く」という記事をご存知でしょうか。知らない? 読んで下さい。めちゃくちゃ面白いので。
 なお、多文化主義ってのは、複数の文化を持つ集団が存在する社会ではそれぞれが対等な立場で共存するべきじゃね? みたいな主義です。

※11巻までのネタバレがあります。できればBEASTARSを読んでから記事を読んで頂きたいですね。 

 さて、僕もここからガンガンBEASTARSのネタバレをしていくので、まだ読んでいない方々はお気をつけ下さいまし。

 

 

  まずそもそもなんですが、BEASTARSで描かれる世界は、肉食獣と草食獣が仲良く暮らしてるように見える世界なんですが、あくまで「見える」だけであって、肉食が草食を食い殺す事件が発生したり、お互いを差別していたりと、実際は割とドロドロしています。それは、肉食獣が物理的に強くて肉を食べる本能から逃れられないからであり、草食獣がその被害者性を訴えているからであり、そしてお互いがその本能をタブー視したりしているから起こっています。

 先ほどリンクを張った記事は、ざっくり言うと「多文化主義を大義名分に差別構造を暴力的に批判しても、それで平和になるほど世界は単純じゃないし、そもそも加害者性/被害者性は流動するし、だから共存のためには加害者/被害者の政治的正しくなさもリベラリズムに組み込む必要がある、ってBEASTARSから読み取れるよね」という話です。

 BEASTARSの主要キャラクターであるオオカミのレゴシやウサギのハル、アカシカのルイをはじめとして、彼らの強者/弱者の位置づけは単純に肉食/草食という立場に起因するものではありません。レゴシは気味の悪いオオカミとして怖がられて生きてきて自分の強さを否定しようとしていたし、ハルは自身の弱さから逃げるようにオスを食い散らかす恋愛強者となり、ルイもまた社会的な強者でありながら様々な弱さを抱え込んでいます。時と場合によって彼ら彼女らは強く、弱いのです。決して草食だから弱い、肉食だから強いというような、属性に合わせた単純なアイデンティティではないのです。

 そして、物語の序盤~中盤にかけての大きなテーマである食殺犯との戦いにおいて、レゴシとルイは社会に対するアンサーとしてひとつの解を見せつけます。ルイの足をレゴシに食わせたのです。彼らは、社会がひた隠しにしようとしている草食の持つ「弱者の被害者性」と肉食の本能という「強者の加害者性」さえも組み込んだ上で、対等な友情を成立させたのです。それは「政治的に正しい」とシンプルに言えないものであり、彼らの通うチェリートン学園長の言葉を借りれば「あまりにも若くて」「大人には刺激が強過ぎる」ものであるのでした。

  物語終盤では、肉食獣が日頃の本能を抑制するために肉を食べる場所である「裏市」にて、レゴシは肉食と草食の共存を掲げながら血みどろの縄張り争いに参加します。また、その一方でルイは公共の電波で、肉食も草食も「裏市」から目を背けずに互いに関わり合うべきだ、と主張して人々(獣々?)に伝えます。

 (ただ、肉食草食を問わずに皆が裏市に向き合った結果として起こったのは裏市そのものの否定であり、結局は多文化主義を元にして差別構造を脱却しようとすることだったのは注意すべきことでしょう)


 レゴシやルイのような「若くて」「刺激的な」方法は、それこそ主人公の特権であり、万人が目指せるものではありません。だとしたら、大人にとって「正しい」肉食と草食のつきあい方とはどんなものになるのでしょうか?

 その答えはレゴシの友人二名が教えてくれると僕は考えます。ベンガルトラのビルと、アンゴラヒツジのエルスです。

 ビルとエルスはレゴシと同じ演劇部に所属している友人です。
 ビルは物語序盤では肉食獣の強さに自信を持った存在、肉食獣としての本能を肯定する存在としてレゴシと対照的に描かれます。演劇の前にウサギの血を飲もうとする、迷い込んだ裏市で食肉をしようとする――(、あと普段から下ネタ言ったりしてヤンチャ)。しかしながら停電のような有事の際は積極的に草食獣を守ろうとするなど、決して草食獣を見下しているわけではなく、対等な存在として接しています。
 エルスは1話でレゴシに対して「肉食獣は化け物だ」という思いを抱いていましたが、レゴシが亡くなった草食の友人を大切に思っていることを知って認識を改めます。

 彼らの関係性がよくわかるのは78話、152話、182話でしょう。
 78話では、肉食と草食で合同の部活である演劇部が活動休止になりかけます。たまたま廊下でエルスと鉢合わせたビルは本心とは裏腹に「自分の身の安全が確保されるから喜べ」と伝えますが、そんなことどの口が言ってるんだとエルスに怒られます。食肉を含めたビルの悪行は全部筒抜けだったけれども、その人の悪い所も良い所も全部見える部活は楽しかった、とエルスに告げられ、ビルは部活を続けたいという本心を曝け出すのでした。
 152話では、演劇部部長になったビルが、こっそり裏市に行っているものの、演劇部の草食獣たちが大好きだから全力で黙っている、とレゴシに伝えます。
 182話では、学園の外が草食獣にとって危険な状況になった際に、エルスは「こういう時怖いのも頼れるのも肉食獣」とビルに話しかけています。

 これらから読み取れることは次の通り。ビルが隠れて食肉を行っていることをエルスは知っていて、ビルはエルスが知っていることを理解した上で気遣いながら行動しており、つまりお互いの強者性/弱者性や加害者性/被害者性を考慮した上で対等な友人関係を築いているのです。

 それはきっと、ビルもエルスも「相手は草食/肉食である」という属性と、「自分と相手の関係」を切り分けて考えることができるから成り立つものなのではないでしょうか。

 78話で交わした会話以降、きっと二匹は肉食/草食の良い所も悪い所もひっくるめて、お互いを属性でくくらずに「個」として捉えたのではないでしょうか。

 レゴシとルイのように世界を変えたいのであれば、その関係性は「個」にとどまらず、どうしたって属性が絡みます。社会運動をする上で、自らの当事者性が重要視されるように。「肉食獣としてのレゴシ」や「草食獣としてのルイ」が強調された関係になってしまい、二人の対等な友情は時として過激な形をとっていきます。

 しかし、世界を変えなくてもいい、友人とただ仲良くしていたい、そんな関係からくる多文化主義の達成のための一つの解が、ビルとエルスのような関係性なのではないかな、と思うのです。等身大で背伸びをしない対等な関係は、相手の属性を眺めることじゃなく、相手そのものを大切に思うことで得られるのではないか、と。

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