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「きもちわりぃなぁ」

久しぶりに会ったアーティストの先輩とお話しをした。「最近どうですか」
「なんとなく、絵を発表しようとおもう場所が変わったかな」私も一緒だった。この辺は、もう名古屋や岐阜という地方にいる周りの作家は大体似通った話をするので、私たちの領域はこっちなんだろうな。


「あとは、整理整頓された声よりも、必死にやってる気持ちの方を伝えないといけないなって思ってる。
東京での作品オークションのときね、コンセプトを流暢に伝えていた人よりも、震えながらでも、支離滅裂でも、内側に秘めてる想いを、その熱量のまま伝えた子の方が、手を上げてもらってたの。」
これは、ああ、分かるなぁと思いつつも、なんだかモワモワする。コンセプトを流暢に伝えている人も、たぶん、それまで積み重ねた苦労、その上にまた苦労を重ねている。どちらも中身があるはずで。

あんまり必死になってないとみられたり、働いてるから余裕があると勝手に思われている。私の社会の印象。
だけど、最近は体が不調で、まぁ、いわゆる普通の労働疲れや世の中疲れなのだが、そもそも疲労しているということを出していないなと思った。

というか、見えている世界が全て、なのがおかしいのだけど。見えていないところまでたくさんの人が考えているのが世の中であって。仕事でも、業務を見える化してと言われるが、その限界を感じてる。
とおもうと、やっぱりムーブメントとかメディアとか露骨に見せて評価されている今の大衆的なものが精神に合わないんだろうなぁ。

ひずみをかんじる。

創造性すら表に出せ、みせろ、内側を見せろ、お前を見せろと、ずっと気持ち悪い。仲違いした表現者が「個人の内側を見たいんだよね」といって、その一方的な気持ちよさに酔っていた。のを思い出す。
その人はもう今は何も表現していない。内側を見て満足したのだろうか。そもそも、内側なんて最初から見たかったのだろうか。見た結果、都合良く求めていたものは、なかったのではないか。

内側まで勝手に興味を持つこと。
「きもちわりぃなぁ」。いわゆる作品っぽいものが沸々湧いてくる。いやぁほんとここ気持ち悪いんだよね。言葉にしたくないけど出したい。
社会で手を取り合ってものをつくることやプロジェクトをすることと違うのはこの辺り。

この部分のひずみに向き合うことが、そのまま制作コンセプトとなりそう。次はここなのかもしれない。
まだまとまらないけど、つくってない作品が頭の中で喋り出してくる感じがしている。

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