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わからない物事の価値を低く見積もることに対する思索

※この思索は、私の主張ではありません。


例えば目の前に、コピー用紙に描かれた落書きのような絵と、額に飾ってある繊細で綺麗な風景画があるとする。
その時に、何もこちらから問いかけをせず「どちらの絵の方が価値があると思うか」についての思想をコッソリ覗くと、おそらく観覧者のほとんどが後者に価値を見出す。

無意識に人は、これまでの経験を踏まえて様々な物事を判断している。考えるという負担を避けるために判断が先にくるのだ。

負担を避けるという行為は、動物の本能的な部分や、忙しない時代による思考力(体力)や時間不足の影響、あるいは教育や環境の違いなどと推測される。
だが、私はこれらを比較した場合、圧倒的に本能によるウエイトが大きいと考える。

(闘争本能でもあるが)防衛本能というものがある。自分自身が生存するため、より健やかに生きるために、人の心は敵対心や恨みを生み出し、憎悪となり、外敵ストレスから自身を守る。
(会社や学校という強制されるコミュニティ自体がそもそも人間の生活に合っておらず、本来であれば嫌なものから逃げられる環境がある前提の話とする)

最初にあげたコピー用紙の落書き絵は、ほとんどの人々にとって「わからないもの」に当たるだろう。
そのような「わからない」感覚を目の前にした時に、逃げる、躱す、対応しない、という判断が本能的行動として起こる。なぜならば、わからないものを理解をすることは「変化」することになるからだ。

ここがポイントである。まず「変化」は、これまでの生活が一変したり、自己を否定する可能性につながったりと、「恐怖」をもたらす可能性があるのだ。
そしてもう一つ、例え良い変化だとしても、その変化が起きること自体が、自身にとって負担に繋がりやすい。

以上から、自身の防衛本能により、人間は変化を避けざるをえないのだと推察する。変化という負担=ストレスをさける防衛本能が、人の「わからない」物事に対して価値を低く見積もる理由ではなかろうか。

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