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形にならなかった言葉たち

人と会話をする時に、『こういうネタを振ったら』『こういうリアクションをしたら』と、筋書きを決めて臨むと、その会話が面白い方向に転ばない。

会話自体はうまくまとまり、相手としては満足していたとしても、
私としては「なんだ、その程度か…」とどこか落胆してしまう。

自分で描いた筋書き通りにことが進んだのに、失望してしまう。
とんでもなく天邪鬼な奴だ。

私は“意外性”や“常識はずれ”が大好物。
だから、想定内の反応や、常識的な言葉、『普通こうだから』と始まる理由づけを聞くと“萎える”まではいかないが、右から左に言葉が流れていってしまう。

しかし、こんなことを言いながらも『自分はある程度常識的な人ですよ』『ちゃんと論理的な会話ができますよ』と必死に羊の皮を被って今まで生きてきた。

その必死さは人生の選択の場面においても大きな舵となっていた。

大学進学の時、自分の『常識のなさ』に漠然としたしかし切実な不安を感じて、
『常識を学ぶため』に法学部への道を決めた。その頃の私は「20才を過ぎた時、自分でも知らない間に法律を侵していないだろうか」と本気で心配をしていた。

これを読んでくれる人は薄々気づいているだろうが、法学部ではもちろん改めて『常識』は教えてくれない。
教えてくれないというか、私が求めていた『常識』は法律とは別のものだった。

だから大学時代はそれなりに楽しかったが、法学部である必要はあまりなかったし、知識を活かせているかというとそうでもない。
(法律事務所の事務員をやっていた時の採用条件は“法学部卒”だったので、それだけは活かせた)

とまぁ前置きが長くなったが、“会話の妙”に話を戻したい。

面白い会話をしたい、と欲望しているのに、実際に誰かと会話をするととんでもなく下手くそな会話しか出来ない。
そしてそれが、私にとって『話したい(憧れの)人』や『仲良くなりたい人』『ちょっと背伸びしないと普段話せない人』だとよりしどろもどろな反応しかできずに下手くそになる。

つまり、常識という羊の皮を必死で被っていた頃に戻ってしまう。
(もしくは羊の皮を一気に全開しようとして、突拍子もないことばかり口走り、ただの変な人になる)

だが、その後“会話の振り返り”を頭の中でしていると、『本当はこう表現したかった』ということが回路が繋がるように形になっていく。

もちろん過去のことを振り返っているわけだから、相手がどんな反応をしたかの答えがわかっているからこそ形になるのだ。

だからいつも後から「本当はこんなこと考えてたんです!もっと面白くできたはず!」と“やればできるもん!”モードに入ってしまう。。

会話中にこぼれ落ちてしまった『反応』『感情』『言葉』…。
ありとあらゆるものを再構築するには文章で残すしか私には方法がない、と
ごく自然なことに今日気づいた。

脈略もなく、テーマも決めていないが私の中に存在する世界に形を与えよう、その努力をしてみようと。

誰かとの会話。その時間内ではこぼれてしまったものたちをもう一度拾い集めて、その時あり得たかもしれない世界(私の中では存在している世界)を再構築してみます。

※ちなみに初めて生成AIを使ってヘッダー画像を作成してみたが、
どんな指示を出すのか、つまり言語化するのかの難しさに、今回綴った“形にならなかった言葉たち”に似た感覚を覚えた。

インターネットの世界はこうやって、過去の世界も未来の世界も時空を超えて繋げてくれる。
この時代に生きて、人間という不自由さを抱えながら自由を探すことができてよかったなぁと。

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