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亡くなったペットはどこへ

福くんと花愛ちゃんを失って、3年が経った。
病院のお世話になるほどメンタルを病んだ私も、今はどうにか前を向いて生きている……と思う。

まだまだ猛暑続きではあるが、今年の夏も半分終わった。
お盆の季節になると毎年考えることがある。
あの時、私の手の中で旅立った花愛ちゃんは、福くんは、そして過去に家族だった歴代ペットたちは、今、どこにいるんだろう。

お盆になると、SNSでは「あの世へ旅立った愛しい子が帰ってくる!」というニュアンスの呟きがよく見られる。
思い出の写真をたくさん投稿したり、ハッシュタグで盛り上がったり。
みんながペットたちを愛していたのだと伝わってきて、とても胸が温かくなる。

うさぎを飼っている人たちのなかでよく使われる表現に、「お月様へ行く(帰る)」という言葉がある。
うさぎが亡くなってしまうことをこう表現する。
月にはうさぎがいるとよく言われるが、そのお月様からやってきたかわいいうさぎさんが、私たちの元を離れてお月様へと帰還してしまう。
昔から伝わる月のうさぎの伝承をもじった、かわいい表現だと思う。

ペットと共に暮らしている(暮らしていた)人で、「虹の橋」の物語を知っている方は多いと思う。
(知らない人は調べてみてね)
亡くなったペットが、飼い主との再会を待ってくれている天国より少し手前の場所。
ペットロスに苦しんだ頃、私はこの物語に何度も泣いたし救われた。

(2024年2月追記)
私はうさぎの他にファンシーラットも飼っているのだが、ファンシーラット界隈では最近、「ねずみの惑星へ帰還する」という表原をよく見かける。これもかわいくて好きだ。
地球での重要任務を終えて惑星に帰還していくねずみたちを、「お疲れ様、またね」と優しく送り出せる素敵な表現だと思う。


今年、親族の初盆の法要があった。
読経の後、いわゆる法話を聞いているとお坊さんがこんな話をしてくれた。

「葬儀の日にお茶碗を割って、故人に『帰ってくるな』と示すのに、お盆になったら迎え火をして『帰って来てください』なんて、都合よすぎません? 実はこれ、別々の宗派なんですよ」

前日の深夜、「うちの歴代うさぎたちもお盆で我が家に帰ってきてるのかな〜」なんて何気なくツイートしていた私はぎくりとした。
うちの一族はお盆には帰ってこないらしい。宗教とか興味なかったので知らんかった。勉強になりました(じいちゃんばあちゃん、ごめん)

じゃあ二度と会えないのかというとそういう意味ではなく、「仏様になって、常に私たちに寄り添ってくださる」のだそうだ。ちょっと安心した。
手の届かない所へ行ってしまったわけじゃない。見えないだけでずっとそばにいてくれる。
その教えを聞いて、悲しみに沈んだ心が慰められる人もきっとたくさんいるはずだ。


じゃあ、福くんや花愛ちゃんはどこにいるんだろう。
お月様にいる?
虹の橋のたもとにいる?
天国にいる?
ずっと私のそばにいてくれてる?

私はドドド理系人間なので、死んだ人や動物は生命活動が止まって物質となって、最終的には火葬されてCO2とH2Oと骨と灰になって跡形もなくなってしまうと認識している。(厳密にはもっと細かいけど)

輪廻転生は信じてないし、幽霊がいるとも思わないし、あの世や月世界や虹の橋が実在しないことも知っている。
生き物が死んだら終わり、何も残らない。

だから最初は、遺骨だけがあの子たちの生きた証だと思って、骨壷を抱きしめて何度も泣いたし、なんなら遺骨ちょっと食べようかなとか思ったこともある。
(最終的には排泄されてトイレに流されちゃうな…と思ってやめた。ロマンは無いが賢明な判断)

お世話になったペット霊園から一周忌の合同法要のお知らせが届いても、「お寺に行ったってうちの子たちには会えないし」と思って、行かなかった。

あの子たちはもうどこにもいないと思ってた。

だけどそのうち少しずつ、
夜空の明るい月を見上げて、「あそこから見守ってくれてるのかな」と思うようになった。

私が死んだら、虹の橋で再会できるのかな、と思うようになった。(これは行き過ぎるとちょっと危険)

掃除をしていたら棚の下から丸いうんちが転がり出てきて、もしかして遊びに来たのかな?とか思うようになった。

以前は何を見ても辛いことばかり思い出していたのに、次第にいろいろなものにあの子たちの面影を感じて、ふと嬉しくなっていることに気付いた。

結局のところ、なんでもいいんだと思う。
お月様でも、虹の橋でも、天国でも。
ずっとそばにいてくれても。
ずっと胸の中にいるのでも。
毛皮を着替えて生まれ変わるのでも。
お盆になったらキュウリに跨って颯爽と帰還してくるのでも。
千の風になって大きな空を飛び回っていても。

どれがいいとか悪いとかじゃなくて、
その人が救われるならなんでもいい。
残された人が心の傷を癒して、あの子の思い出を抱きしめて前に進めるのなら、なんだっていいのだ。
どれか一つを信じたっていいし、全部採用したっていいのだ。


かわいいあの子たちはもういない。
もう二度と会えないし、あのふわふわの体を抱きしめることも叶わない。

だけど、あの子たちの毛を入れてもらった、そっくりの人形はずっと我が家にいて私たちを見守ってくれる。

自分で作ったぬいぐるみをあの子たちだと思って、今でも毎晩添い寝している。

満月の夜、空を見上げて明るい月を眺めると、少しだけ胸が温かくなる。

そうしていつか私が死ぬ時は、虹の橋のたもとで待ち合わせをするのだ。

あまりにも都合の良すぎる考え方だけど、それらすべてが私の心の拠り所になっている。
そうなるまでに、三年もかかってしまった。
だけどそれでいいんだと思えたら、とても気分が軽くなった。

自分に都合の良いものを自分の拠り所にして、愛する子たちに心配をかけないように、今日もほどほどにがんばって生きていこうね。

自作したはなぬいとふくぬい(服は買った)

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