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好きと自分との境界線

6月の真ん中から、8月の真ん中まで。

意識的にこの言葉は使わないようにしていたけれど、詳しいことを話しすぎるわけにもいかないので、わかりやすく言うならわたしは「病んだ」。

今まで散々Twitterの友達から見られるところで愚痴を垂れ流していたくせに、何故か急に呟いてはいけないような気がした。

外に出られなくなった。学校に行こうと決心して家を出ながら、気付いたら逆方向に行っていることが増えた。極め付けに身体を壊した。熱が41度も出たのに、コロナは陰性だった。熱は丸一日ですぐ落ち着いたけど、身体はだるくて、ベッドに1週間住んだ。その後も、咳が止まらなくて喉が痛い状態が1か月以上続いた。

身体を壊して強制的に部屋に閉じこもらされて、ひとりいろんなことを考えながら、大好きな音楽で空っぽだった心を満たしていって、薬を飲んでも治らなかった自分そのものが、少し良くなった感覚を得た。

その中で気付いたこと。
わたしは音楽が大好きで、音楽がないと生きていけない。1日のうち14時間はイヤホンをつけている生活をかれこれ2年続けている。
音楽は趣味であり、わたしという人間の全てだと、思っていた
しんどかった時、本気でアーティストマネージメントか音響に携わろうと思って大学もたくさん調べたし、好きなことをして生きていきたいと強く思っていた。

だけど、ふと考えた。
わたしのこの心の穴を全て趣味で満たすことが果たして本当の幸せなのか?
幸せではない、とは言い切れない。だって正直ずっと音楽聴いていられるのは幸せだと今でも思う。
でも、わたしはいつの間にか、趣味に蝕まれていたように思う。
好きなものを好きでいることで、何かに追われるように過ぎていった6年

音楽を聴いて幸せを噛み締める自分が本当の自分で、それが全てで、そう思い込んでいたら、好きと自分との境界線を見失った。

当たり前だけど、音楽はわたしの全てではない。
音楽の才能がないから音楽で食べていくのは不可能だ。
推しを好きでいるだけで生きていけるわけでもない。
推しは、推しの音楽に救われているわたしのことなんて、知らないし。

わたしは、音楽に救われることは出来る。
だけど、音楽に心を蝕まれていちゃ意味がない。
ここまで考えてようやく、現実の自分に目を向けた。

自分を否定するだけの毎日
音楽を聴く以外の生きる意味をみつけられたならそれが1番だけど
今はとりあえず、音楽に支えられながら、死なない選択肢を選び続けるのもありかなあって

部屋を少し変えてみた
勉強机に飾ってあった推しのポストカード、バンドのカレンダー、ポスターを全部剥がして、部屋にあったグッズを全部寝室に仕舞った

趣味に蝕まれた自分を、隠してみた

少しずつでいいから、ひとりの人間として、趣味を楽しんで自分を生きられるようになろう

こんなことを思えるようになったのは、やっぱりジミンさんとユンギさん(Agust Dさん)のおかげだったりする。

この曲たちに何度救われたか。
ひとつのnoteでは書ききれないので、それぞれひとつずつnoteに残そうと思う

8月30日、誰にもフォローされていないTwitterで一連の流れを呟いていたはず、それをこのnoteに引用しよう
と思っていたのに、何を血迷ったかもう消してしまっていた。
少し成長した瞬間の貴重な文章を無意識のうちに消してしまった過去の自分を今から東京湾に沈めてきます。

好きと自分との境界線、もう見失わない