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小阪のピエロという方法論

※注意:これは2022年11月6日に原宿ソワサントで行われた自由が丘音楽祭B-3公演シェーンベルク「月に憑かれたピエロ」全21曲の上演に至るまでの長大な記録です。この世で1番長いです。短編小説くらいあります。長大な上に全編に渡って何かに酔ってるし「とにかく大変だった」としか書いてありません。万が一最後まで読むとぐったりするし、更に、1行でサラッと書いてある事のほとんどに10〜100項目ほどの工程があることに薄々気付いて気が遠くなると思います。忙しい方にはおすすめしません。

※文中に登場する「小阪」は全て筆者です。念のため

※謝辞:この作品の演奏をご依頼くださり、貴重な体験をさせて下さった主催の小林さん、何もかも助けて下さった同じく林さん、ご来場のお客さま、スタッフの皆様、共演の皆様、支えてくれた夫に心の底から感謝します。ありがとうございました。


ステージは必ず、何かの発明なのだ。

人生で何度も「小阪さん月に憑かれたピエロとか歌わないんですか(いや歌いますよね)」と訊かれ続けてきた。そのたびに「いやその興味はあるんですが」と曖昧に答えてきたのだけど(だいたいピエロ・リュネールとタイトルこそフランス語だけど内容はドイツ語だ) あんまり訊かれるので楽譜だけは入手した。勉強会に顔を出したことだってある。しかし歌ったことはなかった。楽譜が「積ん読」になったまま、またしばらく経った。そして2020年秋、自由が丘音楽祭の後、とうとう本格的に頼まれてしまった。何年もお世話になっている主宰の小林マダムに「来年のテーマはウィーン世紀末なんだけど、小阪さんあれとか歌わないの、ピエロ・リュネールとか」

もちろん、1年後なら歌います。勉強しときます、と答えてから、中止を挟んだのでまただいぶ経った。その間ずっと半信半疑だった。近いうちに月に憑かれなくてはならないらしい。ほんとうに?そして、どうやって?

器楽メンバーが固まって、演出もぜひ、と言われたのが2022年夏である。いや、ちょっと待ってください、確かに自由が丘では「ソクラテス」(2017)「ブレヒト・ソングとその周辺」(2019) とセルフ演出モノオペラをやってきたけれど、ピエロはわけがちがうんです。誰も知らないソクラテスや動いて当然のブレヒトと違って、曲がとってもとってもとっても有名だし難しいし、21曲もある。古今東西にすごい録音も上演例も映像化も山のようにあるんです。私に何ができるっていうんですか。

演出も詩の翻訳も映像も演奏解釈の一環だ。自分で全部やるのが、いちばん負担少なく内容を深めて統一の取れた舞台を作ることができる。人に頼んだらその分のディレクションをしなくてはならない。本番前に妥協せず他人の映像をディレクションする勇気などない。そういう判断になって条件が固まったのが2ヶ月前。

小阪のピエロを作る。

シュプレヒシュティンメ(歌と朗読の間のようなもの)をあらゆる方法でさらう。書いてある音程で。あるいは完全なリズム読み、プレーンな朗読。何一つ身体に入ってこない。音程とはいかに人を助けるものだったのか。ピアニストと合わせれば少しはわかるかもしれない、と言って合わせてみる。歌えない(弾けてる) 飲酒する。月の前に酒に酔う。マエストロと3人で合わせる。また愕然としながら、辛抱強く教えてもらう。

声は。どんな声楽家がやるより美しく、どんな役者がやるより思い切ったダミ声を使う。そして低音は誰よりも低く(お客さん:おじさんみたいな声出してましたね!) 私がやるからには。もっと器用なソプラノ歌手でなく。ドイツ語圏で嫌というほどウィーンを勉強した人ではなく。私が。

ピエロはパラドックスの物語だ。死と再生、月と太陽、子供と老人、オペラとコンサート、歌と朗読、性愛と純潔、光と闇、男と女、大衆芸能と前衛芸術、そうした相反する要素が共存する。

それら全てを声と音楽と衣裳、字幕映像に含めて、全てを受け入れて再出発する物語にする。

ピエロ衣裳は難しい。中性的な服装はよくよく工夫しないと中年女性ぽさを増幅させる。ダサいのは罪。下品も罪。狂わないのも罪。舞台映えするのはコロンビーヌ。でも一人称は厨二病ぽいピエロ男子。みんなが見たいものは何?可愛くてセクシーな歌って踊るピエロ=コロンビーヌ!

家にあるものを組み合わせてシュミレーションする。パジャマのズボンに燕尾服、中はコルセット。チュチュをつける。チュチュから広がるバレエのイメージ。古いロマンティック・バレエやバレエ・リュスのペトルーシュカ。衣裳は着替えながら、使ってないものは小道具にする。イメージを細かく細かく指定して合うものを通販サイトで探す。パジャマの水玉の大きさ1つに何時間もこだわる。(林さん:よくそんなにぴったりのものが売ってましたね)値段にもこだわる。あれだけ買って小道具や下着類も含めてもドレス1着よりはるかに安い。

衣裳=小道具の物流の計算が合った時に演出が成立する。絶対にどこかに正解があるが誰も知らない。そして楽譜は見たい。楽譜を見ている人間がどうしたら踊ることができるのか。

セミステージ形式の限界としてのピエロを作る。

楽譜を詩人のノートにする。燕尾と黒のロングスカートを着た(つまり男か女かわからない)詩人がものを書いているうちに次第にその世界に入り込みピエロになる。前半では白のチュチュを欲望の対象→首に巻いてピエロ=笑いの象徴→さらに外して生贄の象徴に。黒スカートは4番の洗濯物や寝具、闇の象徴の黒マントとして機能する(巻きスカートって便利) 1部幕切れの7番、病みやつれた月が細い細いフルートの光と響きとともに消え、その死ともに黒布にくるまれてサナギとなるピエロ。2部、ピエロは未熟なまま黒マントを被って巨蝶となって目覚め、闇を支配しようとする。繰り返される死と罪と十字架のイメージ(おそらくメサイアなどの受難部分のパロディだろう)盗んだルビー、血まみれの心臓、絞首台の縄へと姿を変える赤いリボン。13番後半の器楽で肉体だけが蘇る=ゾンビの踊り。14番、ピアノの下に潜り=十字架を背負い、更に高いところへ移動して=十字架に架けられ本格的に死ぬ。15番、傷を受け入れ闇から再生し、古いイタリア喜劇=エンターテイメントに徹していくピエロ。コルセットとチュチュでコロンビーヌ気取りの老婆、燕尾はカサンドロ爺。全てを身につけて=包摂して、ベルガモ=音楽=詩歌の世界へ帰るピエロ=詩人…

これらを全て譜面と指揮を見て、決して広くないアクティングエリアで超絶技巧を歌いながら行う。

無茶。

本は書かないで読むことにする(これ以上道具を増やせない)詩人ではなく読書者が詩の世界に入り込んで表現者になっていく流れにする。日常的な動きから始めよう。寝転がるからアクティングエリアの掃除もしたいし。

限られた稽古でピエロを作る。

秋だもの。みんな忙しい。自由が丘音楽祭の稽古は例年恐ろしく最小限でやってきた。いつもはピアニストと2人だし、お互い何をすればよいかなんとなくわかっていて、勝算があったのだ。

ピエロは。何ができるか、どうすれば良いか、全くわからない。わからないまま人に指示は出せないし、わからないうちに人の意見なんて訊いたら怖くて泣いてしまう。

器楽奏者が集まってくる。その音楽が美しければ美しいほど孤独が深まる(マエストロ:小阪さんて今こればっかり練習してるんですか?自殺しそうにならないですか?)悲喜劇らしい甘く切ないクラリネット、月光そのもののフルートと魂を引きちぎるようなピッコロ、地獄と天界を行きつ戻りつする使者のようなピアノ、心の摩擦音のような鳩尾に響く弦楽器。アンサンブルの夢のような美しさやカッコよさに酔った途端2拍くらい簡単に逃す。ゲシュタルト崩壊する四拍子。熱く正確な指揮は横から見るしかない(指揮って真横から見るとこんなに情報少ないのか)歌えないシュプレヒシュティンメ。

象徴主義芸術としてのピエロを作る。

映像は。1曲につき1枚の写真と詩の抄訳を基本にする。翻訳は以前CDレビューを書いたときに仏語版も独語版も訳した。その独語版を一度そのまま外に出せるくらいに訳し直して、それからスライドに映す内容を決める。写真。象徴的で、かつ説明的でないモチーフ。雰囲気を作って、かつ人間を超えないように。美しく可読性の高いフォントで。花、川、弓や直線の図形、卵、光、そして月。高級な写真よりも私の手の届く範囲の、スマホの写真やパワポで描いた図形。少しの隙とキッチュさで「至らなさ」を演出意図に変える。敢えて何度か同じモチーフを使う。通模倣ミサのように。8番の巨蝶(蛾) は手型。自分の手を影絵にして不気味に光を遮断し、そこから手型を増殖させて、闇夜を訪れさせる。

器楽の、トリオくらいまでのアンサンブルだけなら考えなくてよい/歌や演劇なら自明すぎて誰かが解決している問題がボロボロ出てくる。演出の小阪が苛立つ。歌の小阪がそれを静かになだめ、必要なところに伝えに行く。あるいは言っときますといってそっと口をつぐむ。

自分を分裂させる。演出の小阪が言う「自分と振り付けの小阪と歌の小阪で広い場所で稽古しましょう」制作助手の小阪(どっから出てきた)が言う「前日ゲネを1時間増やしましょう」映像の小阪が言う「これはよほどの人じゃないとオペレーションが危ない。曲を知ってる人に頼んでください。頼めたの?じゃあ映像きっかけを増やせますね、もっと動かしましょう」(操作スタッフ:スライド、思ってた倍の枚数ありました)振付の小阪「小阪さん踊れますよね、こことこことここは適当に踊って下さい。楽譜に書いとくから」歌の小阪「私が休む暇がないじゃないですか」演出小阪「7番の布団で少し寝ればいいでしょ」(器楽奏者:7番の後寝てる時間、確かに長かったですね)

全ての動きがようやく固まったのが2日前。歌の小阪の動きをビデオに撮っては演出小阪がチェックし、膨大なノート(ルビ☆ダメ出し)を書き、でき次第送りますと言ったExcelのきっかけ表を演出助手の小阪が仕上げてマエストロに送る。

誰でも楽しめるピエロを作る。

当日。プロジェクターに挿したUSBのデータが開かない。こんなこともあろうかと制作助手の小阪がPCとケーブルをかついで来ている。プロジェクターに繋いだまま動かせないPCで当日朝のゲネプロ録画を見る(私信:内藤君チームのお2人、ゲネの邪魔してすみませんでした)あっという間に終わる。すごいすごい、あっという間のピエロなんてこの世にあったかしら。ピエロがページをめくる、歌い出す、映像が変わる。本の内容が壁に映し出されているかのようだ。できた。歌がいちばん不安。大丈夫、小阪さん、成立してるから。楽譜ちゃんと見て落ち着いて歌うのよ。

しゃがんだ時に腰から下着が見えることだけが問題。衣裳・演出「その下着はノイズだ。違うのを買ってこよう」休日の原宿の人混みに立ちすくむ。私が誰なのかわからない。買い物に成功する。本番は2時間後。

「40分で作れと?」衣裳の小阪とメイクの小阪とヘアメイクの小阪が焦り始める。ヘアアイロンが頬に当たって火傷する。何年小阪の担当してるの、と小阪が苛立つ。なんでヘアメイクさんが1人しかいないの?あたしたち、詩人もピエロもコロンビーヌもカサンドロもダンサーもいるのに?落ち着こう。ここには私1人だ。その1人の火傷を冷やす余裕もない(注:1週間後の現在完治しました)泣くな、化粧が崩れる。平静を装って火傷の上にアイライナーで星を描く。(器楽奏者:器用ですね)顔の下半分を重点的に化粧する。舞台上でゆっくりマスクを取ってピエロになるのだ。

方法論としてのピエロを作る。

制約を利用すること。表現するのでなく貢献すること。全ての小さな問題を解決することで本質に向かっていくこと。闇と未熟さと幻想でできた異界の穴を掘り、自らと人々を招き入れ、ブラックボックスとして機能させること。逃避ではなく、人が人という制約の中で明日を迎えるために。

歌い終わった直後は何もわからない。素晴らしかった器楽と裏腹に自分の膨大な失敗の記憶ばかりが精神を蝕む(ピアニスト:僕も後悔たくさんありますよ、でも楽しかった)それでも会う人会う人が大いなる喜びを伝えてくれるので恐らく何かとても意味のあることをやったらしい。歌も演出も映像も!と喝采を受ける。ありがとうございます。もはや肉体は屍と化し、精神は幽霊の絞りかす程度しか残っていない。片付け方も帰り道もよくわからない。辛うじて酒と食べ物を流し込む。挨拶を求められる。何をやったかわからないのに話せることなどあるわけがない。Botのようにありがとうございました、を繰り返す。こんな風に限界までやってしまう人間より、ここで一抹の余力を持って気の利いたことを言える人が出世するのだろう、などと考えてまた途方に暮れる。限界までやってもこの程度だ。それでも本当に感謝以外に言えることがひとつもなかったし、そもそも、感謝しかなかった。

数日後、皆既月蝕が起こる。
月が死んで瞬時に生き返る。

1週間が過ぎる。ようやく夢であの孤独な譜面台に立つことがなくなった。次に「ピエロとか歌わないんですか」と訊かれたら「歌ったことありますよ、なんならひと揃いスーツケースに入れて歌いに行きますよ」と答えられる。

「月に憑かれたピエロ」の上演の仕方を発明した。

(終わり)

上演記録
自由が丘クラシック音楽祭2022 in原宿
2022年11月6日
シェーンベルク「月に憑かれたピエロ」
出演:
辻博之(指揮)
小阪亜矢子(シュプレヒシュティンメ)
小西健太郎(ヴァイオリン/ヴィオラ)
秋津瑞貴(チェロ)
内山貴博(フルート)
岡本昇大(クラリネット)
安田正昭(ピアノ)

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