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お題頂戴エッセイ大喜利③ 「死ねばいいのに」

わたしは一人っ子だから、きょうだい喧嘩はしたくてもできなかった。

ともだちとは喧嘩したら終わりだと思っていた。

きょうだい喧嘩の経験がないから、

喧嘩しても仲直りができるということを知らなかったのだ。

「おねえちゃんなんて、しんじゃえ」

漫画やドラマでこんな台詞が出てくると、どきどきした。

ほんとにしんじゃったらどうするんだろう、と思って。

人はときに心にもないことをいうものだとは知らなかった。

それはいまでも変わっていない。

自分はただいいたいだけで言葉を発したことがないから、相手もそうだと思う。

いわれたことは真に受ける。

そして、一度そういったのだから、その後もずっとそうなのだと思う。

それは、窮屈な考えかただ。

自分から離れて見るとわかる。

言葉は時間ともに薄れたり、時間とともに入れ替わったりもする。

そう前提するほうが自然ではないか。

口には出せないと思う言葉であっても、自分のなかでは許してもいい。

それは塊ではなくて、溶けて流れていってしまうものだから。

妹が「しんじゃえ」といってもドラマのなかのおねえちゃんは死ななかった。

妹はただそのとき、そういいたかっただけなのだ。

いまわたたしに、すごく憎たらしい人がいて、

心の底から「死ねばいいのに」と思っているのだとしたら、

言葉と自分とを許せばいい。

許された言葉は溶けはじめる。溶けきって、心の外へ流れだしていく。

そのときの音が「死ねばいいのに」と聞こえたとしても、鳴ったと同時に消えていく。

シネバイイノニ…

いわれた人は死ねばいい「のに」それからも生きているだろう。

死ねばいい「のに」死なないのだ。

だからよけいに憎たらしいではないか。

でも、わたしはそういいたいからいってやったのだ。

言葉を許して自分を許せた。

シネバイイノニ。ヒトコエナイテキエテイク。