『八幡神社の名の由来』と『穢された天皇家の血筋』古事記・日本書紀には書いていない話
初代の神武天皇から数えて9代目 開化天皇(115歳で崩御)のお話。
『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられるが、この方の父は8代目 孝元天皇。
孝元天皇が116歳で亡くなった後、開化天皇は孝元天皇の妃(側室)イカガシコメノミコト(伊香色謎命)に手を出して、あろうことか皇后に据えた。
ヲヲミケヌシは「そんなことをしたら御世にまで影響が及ぶぞ」と諫めたが「昔は伯母だったが今は姪だ。だからいいじゃないか。まだ19歳の盛りだ」と、聞く耳をもたない。イカガシコメノミコトは14歳で孝元天皇の妃になっているので若すぎたのもあろうか。
実はこういった親子の禁忌は初めてではない。
神武天皇がまだ即位前の神武東征の頃、アヒラツヒメ(大典侍)との間にタギシミコという男の子を産んでいる。
神武天皇として即位したときに皇后 タタライスズヒメ(蹈鞴五十鈴媛)を娶られて、兄弟2人を産んでいて、神武天皇が崩御したあとタギシミコはタタライスズヒメに手を出してしまう。義理の母だ。
この時代、親子を超えた性的な禁忌を犯すのは大罪である。
タギシミコは自分の弟たち二人つまり皇位継承権を持つ二人を殺そうと策略するが逆に殺されてしまい、この時はなんとか天皇の血、皇統は守られた。
話を戻そう。
父の妃(側室)イカガシコメノミコト(伊香色謎命)を自分の皇后に据えてしまった開化天皇。
そうなると開化天皇とイカガシコメノミコト(伊香色謎命)との子には当然、皇位継承がいく。それで誕生したのが崇神天皇(すじん)10代目である。
この時、国内で何が起きたかというと、疫病が大流行したのである。国民の半分ほどの死者が出て、残った人たちはそこにいられなくなって流民となった。この時代でいうところの「罰」である。
皇統の権威に傷が付いてしまった。みかねた崇神天皇の叔父であるタケハニヤスヒコノミコト(武埴安彦命 )がクーデターを起こす。皇統史上、初めてのクーデターである。
崇神天皇は自分の父親の過ちが元だと解ったので、それを改めるために神祀りをする。ヲヲタタネコ(大田田根子)を祀ってクーデターと大流行した病気を治めた。
しかし皇統に傷がついた。
これまでは100~200歳ご存命だったのに100歳もいかずに亡くなる人が出てきた。11代目の垂仁天皇(すいにんてんのう)の子供にはしゃべれない子ホムチワケノミコトが産まれたがそんなことはこれまで一度もなかった。
母を犯すような大罪人を退治するための神器が三種の神器『勾玉と鏡と剣』だった。
宮中でお守りしないさいという家訓の元で宮中に置いてあったが母犯しの大罪の元産まれた崇神天皇は恐ろしくてお守りできなくなった。それで宮中から出すために二人の内親王(天皇の皇女)に渡した。鏡はトヨスキヒメ(豊鍬入姫)、剣はヌナギ姫に。このトヨスキヒメに渡した鏡、八咫鏡(やたのかがみ)がゆくゆくは伊勢神宮創建の元になる。トヨスキヒメの代は場所が定まらなくて各地をてんてんとするが、次の垂仁天皇の代の時にヤマトヒメ(倭姫命)という内親王が引き継いで、とうとう今の伊勢神宮に落ち着くのである。
さて、短命になってしまった皇統をなんとか取り戻さなければならないというある種の宿題ができてしまった。
景行天皇(12代目)の子で有名なヤマトタケル(日本武尊)は熱病により病死するが、以前の天皇の系譜ではこれもありえないことなのだ。
・皇統の宿題をどう解決するのか?
・なんであんなに蘇我氏はわがままをふるえたのか、というとそれにはタケウチノスクネ(武内宿禰)天皇5代に仕えた忠義の臣が関係する。有名な『竹内文書』のご先祖である。
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