
読まれなくてもいいnoteを書きたい
2023年夏至のきょう。個人のnoteをはじめることにした。
数年前まで勤めていた会社の公式noteを運営していたこともあるので、noteにはもともと親しみがあったのだが、今回はじめて自分が個人として書いてみようと思い立った。
自分のウェブサイトやSNSでの発信とどう区別するのか、このnoteでは何が書きたいのかというのを、最初に示しておこうと思う。
ウェブサイトは立ち上げた、けど…
現在フリーランスで活動している私だが、「Subtle Flow(サトルフロウ)」という屋号で個人事業主としての開業届を出したのが、ちょうど昨年のいまくらいのことだった。
その後まもなく、個人のウェブサイトも立ち上げた(はじめましての方、よろしければご覧ください)。
ここには簡単なプロフィールや事業内容などを載せているが、個人事業主としての「営業ツール」という感じではない。ここ数年で自分の肩書き、社会的なステータスもかなり大きく変化していたなかで、とりあえず名刺がわりとして「何をしているのか」をどこかにいったんまとめ、それを公に表明しておく必要を感じていたのだ。
そこでまずは「Subtle Flow」という言葉に込めた思いや、私がこれから目指していく方向性、あり方をふんわりと示しておくことにした。ここでは、あくまでも、ふんわりと。
このサイトを見て、友人や家族は私が何かこれまでとは違う新しい分野に進もうとしていることについてはなんとなく理解してくれたと思うし、滝にしろ、ホロスコープにしろ、具体的な活動内容についてはその都度、SNSなどでも告知するようにしていた。
ただ、そもそも「なぜこのような形で活動することにしたのか」という根幹の部分については、自分の言葉ではほとんど語ってこなかった。
どうしてかというと…
うまく伝えられる気がしなかったから。
私の根っこの考えは、いわゆる目に見えない霊的なもの、「スピリチュアル」なものに強く裏付けられてきたからだ。
「スピな私」をうまく開示できない
自分のこれまでのこと、これからのことをちゃんと語ろうとすると、スピリチュアルな話を避けることはかなり難しい。
フラットに聞いてくれる家族や友人が少ないながらもいる(ありがたい)とはいえ、一般的にはまだまだ取扱注意な話題だとわかっている。チラリとさわりを話しただけでも微妙な空気になることもあるし、「現実離れしたスピ系の人」と認識されて周囲から距離を置かれることは、かなり自分としても抵抗があった(私自身も「現実離れしたスピ系の人」が苦手だったので)。
どうせちゃんと伝わらないんなら、なるべく伝えないでおこう。
この慎重さはこれまでの私の人生を守ってくれていたものでもあるが、一方では傷つきたくない、孤独や寂しさを感じたくないという弱さの表れでもあったと思う。
それでも、いよいよ違和感が無視できなくなってきた。それがここ、数ヶ月のこと。明らかに不自然、気持ち悪い、ムズムズする。背中に穴があいていて、エネルギーが漏れてしまっているような、そんな感じ。
この感覚は過去にも何度かあるのだけど、だいたい自分の潜在意識が何かのメッセージを伝えたがっているときだ。
やっぱり、原因はこれかな、と思った。
スピリチュアルな自分を正直に開示できていなかったこと。それはじわじわと私自身の内面を追い詰め、ストレスになっていたようだった。孤独を感じたくないから黙っていようとしたのに、それによって自分自身との乖離が起きて、孤独感が解消するどころか、余計に強くなってしまっていたのだ。
どっちにしたって孤独なんだとしたら…もういいか、と思えた。これはもうきっと、覚悟を決めろということだ、と。
誤解されてもいい、伝わらなくていい。
スピリチュアルな体験や気づきもちゃんと込みで、自分にとっての真実と感じることを、自分の言葉で書き残しておきたい。
はじめて、心からの衝動として、そんな気持ちになった。なぜかいまの私なら、大丈夫かも、という気になっている(時代の変化もあると思う)。
ターゲットもゴールもない文章とは
振り返ってみたら、伝えることを目的としない文章というものを、私はほとんど書いたことがなかったのだった。
大学ではマーケティングを学び、社会人最初のキャリアがビジネス系の雑誌の編集者・ライター。出版社を辞めたあとも、しばらく企業の広報を担当していた。だから仕事では「ターゲット(読者)やゴール(成果)をイメージし、そのために合理的に伝える(文章を書く)」ことを、ずっとやってきている。
これは職業柄だったのかというと案外そうでもなくて、思えば小学校の作文だって「ターゲットとゴール」を意識していた気がする。大人に褒められるためには、賞をとるためには、試験に合格するためには、どう書くべきだろうか、と。
わかりやすいマーケットインの発想。というか、プロダクトアウトを装ったマーケットインともいえるかもしれない。
というのも、私の書いていた文章に自分の気持ちがないというわけではないし、内容に嘘があるわけではないからだ。むしろ自分の気持ちや体験は「素材」としてはハッキリと認識していて、独自性の高いものとして大切にしていた。ただ、それをどう世に出していくかを重視して、常にメタに、戦略的に考えていたのだった。場にあわせて、相手にあわせて加工し、検閲をかけ… つまり、編集して出していたイメージ。
だから、当然ながらその分の純度は落ちてしまう。
この調整スキルは人生前半においてはひとつの強力な武器であり、現実社会にフィットしたキャリアを形成するのに確かに役立ってきたとは思う。そして、実際にこれからも使っていくものだ。仕事をしたり人間関係を円滑にしたりするための、よい意味での「方便」として。
40歳、人生の折り返し地点。そうじゃないこともやってみたくなっているのかもしれない。これまで偏りすぎていたのだとしたら、あえてここからは逆をやらなきゃいけない…という感じ。
誰のためでもない文章を書く。
目的のはっきりしない文章を書く。
その代わり、なるべく純度を下げない文章を書く。
ターゲットもゴールもない文章、これは、私にとって新しいチャレンジになる。やったことがなさすぎて、本当に未知だ。
一般的にnoteの使い方として推奨されているのは「読まれる文章を書こう」というものだろうが、ここから私は「読まれなくてもいい文章」を書く練習として、noteを使わせてもらおうと思っている。読んでほしくないというわけではなくて、読まれなくてもいいから書き残しておく。
ちょっと自分でもややこしいが… noteというプラットフォームは、そのあたりの懐が広いところがある気がしたのだ。
匿名では意味がないらしい
実は、数日前までは匿名でnoteを書いていこうと思っていた。誰かに読まれなくてもいい、自分の感じたことを純度の高いままで表現したいだけなんだとしたら、匿名アカウントのほうが気楽でいいのではないか、と。
実際に、最初の記事を2000字ほどで書き上げたところで、下書き保存までしていた。ところが、なぜか公開のボタンが押せなかったのだ。何かが、引っかかっている。匿名なのだから別に公開したところで即座にデメリットが生じるわけではないはずなのに…
これはまさに、自分の魂が「それは違うんじゃないの?」と教えてくれていたような感覚だった。「またそうやって中途半端にしてここで逃げるんですか? せっかく自分を認めて統合するチャンスなのに」と。
私の場合、いまさら匿名でやったとしても意味がないのかもしれない。
読まれることは目指さなくても、実名で書くことにこそ意味がある、ということ。
つまり、覚悟を決めるかどうか、それだけの問題だった。
ちょうど一年前に「Subtle Flow」という屋号をつけて個人事業をはじめて、ウェブサイトを立ち上げたこと。自己開示においては確かに大きな一歩ではあったが、これ以上の部分を深掘りして伝えていくべきなのか、ふわっとした状態でとどまるべきなのか、それが当時はわからないままだった。
一年経っての、やっといま。吹っ切れて先に進もうと思えている。
ブレーキをとっぱらって
これは「読まれなくていいnote」としてはじめたい。
わざわざこう書いているのは、いつも意識しておかないと、私の「他者を意識しすぎるメタ認知能力」は暴走してしまうことがわかっているからだ。インターネット上に出す以上は倫理的に問題があることはもちろん書いてはならないが、他者を意識することはできるかぎり避けていきたい。
いわゆるエッセイともちょっと違う感じような気がするし、文章として成立するのかもよくわからない。これを読んでくださる方がいたとして、その方にとってどのような意味があるのかも予想がつかない。
でも、まずは練習としてやってみたい。せっかくなら、これまで私がどこにも書いてこなかったようなことを、書いていけたらいい。厳しく作動していた「自己検閲」のブレーキをとっぱらってしまったら、とりあえず書いておきたいことはいろいろある気がする。
いまなんだかちょっと、子どものようにワクワクしている自分に気づいてしまった。
背中の穴が、もう塞がっている気がした。
このnoteは私としては「読まれなくてもいいnote」として書いていくつもりですが、「読んでほしくない」というわけではなく、どなたかもし読んでくださった方がいて、何かを感じてくださったりしたら、すごく嬉しいことです。気軽に感想などもお寄せいただけたらと思います。
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