観客

 とある留学生と時折名古屋大学交響楽団の演奏を聞きに行く。私は英語が不得手であるから、外国語で活動しなければならない時は予め英語を聞き流して、頭を切り替えようと努めている。今日はそれでもうまくいかなかったような気がする。語学は半分習慣であり、付け焼刃で回復できるわけではない。

 ほぼ最前列に近い場所で、ドヴォルザーク、ドビュッシー、ブラームスを聞いた。演奏が終わった後の拍手の時間に、壇上でヴァイオリンを手にした友人と目が合った。彼は少し反応してくれて、それが無性に嬉しかった。

 嬉しかった一方で、私はいつから観客になったのか、ブラームスの田園的抒情を込めたメロディーにぼんやり酔った頭で考えていた。考えていたと言いつつ、答えを出す気はなかった。いつからそうなったか分かったところで、有益なことは何もないのだから。今日聞き流していた、ラッセルの幸福論のまとめの部分を少し思い出していた。というよりむしろ、思い出せたのが唯一この箇所だった。

    The happy man is the man who lives objectively, who has free affections and wide interests, who secures his happiness through these interests and affections and through the fact that they, in turn, make him an object of interest and affections to many others.

The Conquest of Happiness --Bertrand Russell

 要するに、自分のことを考え続けるのは程々にして、世界に対して客観的になれという。愛情の表現に主体的になりたいという切なる願いは最近生まれたもので、友人の演奏を聴きに行くのはその実践の一つなのだろう。自身に対する愛情の不足は他人に愛情を注ぐことでしか解消しえないのだと最近気が付いた。そして他人への愛情に積極的になると、自分に他者から愛情が注がれているかどうかなど、どうでもよくなるのが不思議だ。

 私は今後、ある側面では観客として生きることになる。これはdespairに基づくのではなくて、unconquered hopeに由来していると信じたい。観客になったから今後何もしないのではなくて、観客として愛情の表現に積極的になれたら良い、ひいては社会集団の中で観客たることを超えて、何か主体的な活動ができれば良いと考えている。

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