雑記4

最近「筆を折る」という言葉の魅力にはっとさせられた。同義語に筆を絶つという言葉も存在するが、それより強い訴えかけを感じる。文章を書くとは自身と対決し続けることだ、他人に負けたって適当な折り合いがつけられようが、自分に負けるともう逃げ場はない。執筆活動の終わりは穏やかなものとは限らない。自らに対する敗北由来の激情から、地団太を踏み、涙を流し、終いには筆を破壊する人を、鮮明に思い浮かべることが出来るだろう。私は確信しているのだが、筆を折るとは決して比喩表現として生まれた言葉ではないのだ。もっとも、人が自身の信じてきた大切なものを、突然破壊するということは往々にしてあるような気がするけれども。

 筆でも楽器でもゲームでも何でも良いのだが、青年が自分の姿を投影できそうな鏡探しに熱中しがちなのは間違いない。しかし人は大抵、鏡に映った自分の背丈なり顔立ちなりに満足しない。そんな時彼らが取りがちで、しかも誤った行動の一つに漏れなく私も出る。鏡自身を破壊することだ。粉々に割れるほどよいのだ。

 鏡を割ると手が血塗れになる。怪我だと認識しているうちはいいが、ややもすると痛みが快くなってくる。私にも自傷行為に安心を見出していた時期があった。「地下室の手記」というドストエフスキーの作品に、歯痛にすら快感を覚える不気味な小役人が主人公として出てくるが、私も一歩間違えれば彼のようになっていたような気がする。今でも時折彼の事を思い出しては、自傷の仄暗い沼にずぶずぶ浸かる際の気持ちよさが何由来なのか考え込むことがある。これは考察などという生意気に距離を取った行為ではなく、共感として。

 学部生から院生に変わる頃、院試落ちを経てくらいだろうか、幸い私の考えには劇的な変化があった。鏡に映る自分の姿を愛するようになったのだ。ここにナルシズムの影は欠片も潜んでおらず、不細工な自分の姿に相変わらず笑いそうになるけれど、今自分がどんな形をしていて、それ故どんな努力が出来るのかに気を払う方が余程重要なのだと察するに至ったわけだ。捉えようによっては幸せのヒントを得たとも言える。怪我の跡はまだあるが、最終目標はそれすら愛せるようになることかもしれない。

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