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wikipediaで漫画やラノベの登場人物一覧にアニメのキャストを書き添えるやつ

許容できない。というのは、ずっと主張してきたことではある。

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漫画やラノベには、原作の段階では「声帯」はついてない


アニメ・ゲーム・ドラマCD……なんでもいいけど、声がつくこと前提のメディアで展開されて、初めて声帯が付与される(最近では1巻発売段階で声優が声つけるCM打つこともあるけど)。

そしてアニメ化されたからといっていきなり、原作を読んでる時キャラがその声で喋りだすわけではない。声優のイメージをすりこまれた読者が脳内で再生するのも、この声優ならこの場面の人物の心情にはこういう解釈をしてこういう抑揚をつけて芝居するだろうという、あくまで想像だ。

強い言葉を使ってしまえば、アニメの担当声優は原作とは元来無関係だ。インタビューで原作への理解・解釈を迫られる義務すらない。

だが実際にはそれ以上のものが求められている。数多のメディア展開の中で、キャラクターの同一性を保つための象徴として。単純にイベントなどでの広告塔として。声優と作品との関わりは、ますます多様化してきている。

wikipediaという誰もが使う場で原作キャラ紹介に当然のように名前が添えられているのも現状を後押しする。原作者が執筆段階からこのキャラはこの声で、と想像してた/アニメ化されてから意識するようになりました! とかならともかく、そうでなければ担当編集者の名前でも載せた方が、原作のwikipediaとしてはよいと思うのだけど。
どうしてもと言うなら「アニメ版のキャスト」という段を作ってそっちに書いてほしい。ページ構成が煩雑になるとか知らん。

事は原作:声つきメディアの関係に限らない

声つきメディアでもドラマCDを経てアニメの際とか、あるいはウン十年ぶりのアニメで声優が「交代」した時は戦争が起こる。

以前のアニメの続編、またはアニメの派生展開でドラマCDが出るとかならば声帯が同じなのは納得行くし、キャスティング変更があれば不満が出るのも分かる。
でも旧作はオリジナル展開だったけど今回は原作準拠でイチからやります監督以下スタッフ一新キャラデザも原作に寄せましたとかいう場合、「声が変わって違和感がある」とゆわれてもそりゃそうだとしか思えない。

原作の再アニメ化と以前のアニメを前提にしたリメイクは違うんですよ。アニメのキャストは、原則的にそのアニメのために集められたもの。声優はそのアニメでそのキャラを演じた役者、以上でも以下でもない。

以前のアニメのそいつと今回のそいつは骨格レベルから別人であって、よしんば同じ声優が起用されたとしても相応の演技を求められる。視聴者の方も「前回はあの声優がああいう演技してたけど今回の声優はこういうアプローチなんだな」と楽しむことは可能だろう。別人だからそもそも「交代」ですらない。

まして漫画・ラノベ原作からのアニメ化/漫画、ラノベ原作からの実写化、舞台化は全くの同列。アニメ⇒実写化、舞台化とは違う。アニメの声優がキャラの声帯として唯一無二、神聖不可侵ではない。必ずしも三次元が二次元を模倣する必要もないのだ。

とはいえ

……とはいえ、だ。アニメ化のハードルが下がってるとは言え、メディアミックスにおける一大プロジェクト感、ファンに与える影響はまだまだめちゃ強い。声高に「原作とアニメは違う」「その声優はあくまでアニメでのキャスティングというだけに過ぎない」と唱えても溝を深めるだけなのも事実ではある。「原作読んでない俺にとってはアニメが原作なんだ」とゆわれたらどうしようもない。

「原作に忠実なアニメ」をやるなら、声優がアニメという枠内で演技プランを考えるにとどまらず、原作を読み込んで自らの解釈を音響監督と戦わせる場面もありうる。

各種展開がひと段落しても演者が折りに触れ作品のことを語り、遊んでくれるのがうれしくなってしまう原作オタクの心情も、間違いなく存在する

また原作が漫画・ラノベであってもそれを飛び越えて二次展開であるアニメを三次元で再現するのを目標とし、成功した実写・舞台の例もある。そういう時の製作サイドのクンフーは、それはそれで尊いものとして否定されるべきではないだろう。

そゆえば2019年はずっと執着してる原作の2.5次元を観に行ってそれがとてもよかったんですけど、万が一別の演者で再舞台化(続編ではない)とかなった場合、自分はどういう反応をするのだろう。
舞台はナマ物だから(後からDVDで観直すとかはまた別の体験)とあっさり受け入れる気もするし、逆にその場その時でしか味わえない一期一会のものだから尚更記憶に強く刻まれて、他の演者受け入れがたいとか言い出す気もする。

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