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ルッキズム

* ルッキズム(外見至上主義)

ハンサム。美男。イケメン。クール。

時代やその場所の空気感によって呼び方は違うけど、ルックスのいい人はそれだけで評価されることが多く、私も美しい人を見るのは好きだ。

その美しさが好みか否かに関わらず、きれいな人を見れば「きれい」と思いマイナス感情は湧かない。誰もが若くて美しい人には憧憬を感じる。

幼い時、母が洋画好きだった為、テレビで名画を良く見た。人生最初に美しい男と認識したのはアラン・ドロンで、テレビ欄でドロンの名を見つけるとその映画は必ず見た。夜寝たふりをして、深夜、自室から真っ暗なリビングに移動して内緒で見続けた為、近眼はどんどん進んだ。

その頃好きだったドロンは「お嬢さんお手柔らかに」とか「黒いチューリップ」の若いドロンで、映画の内容とか演技は二の次で見ていた。彼の美しさに振り回された。

ヴィスコンティの名画「ベニスに死す」はルッキズムが全面に押し出されている。主役の少年はその美貌で一世を風靡したが、若さと美しさは年月と共に失うもので、その後の彼の人生にはルッキズムの弊害が色濃く反映したのではないかと思う。ドロンは実業家としても成功しているが、両親から孤立した孤独な少年時代、17歳でインドシナ戦線で過酷な日々、といった苦労があるから、美貌を武器として使いそれをもとに自分のやりたい事を実現出来たのだと思う。

さて、美貌は人の心をとらえるが、例えば綺麗な人の所作が汚かったり、声がとんでもないキイキイ声だったりするとギャップを感じる、マイナスが膨らむ。

だからオードリー・ヘップバーンの「マイフェアレディ」みたいな映画が成立する。大金持ちが、言葉や所作の汚い(だが外見の非常に美しい)町娘を見出し教育して、一流のレディに育て上げる話。「人間が素敵になるために教養は大切」と語っている映画であるが、そもそもがオードリーがあれほど美しくなければあの映画は成立しない。

美しい人を見た瞬間世界は止まる。
男ならイケメン。モテるための大きな要素。

ドラマにありそうな展開として、姿の良さに惹かれてよく知りもしない男に恋をし、高嶺の花と思い込んでいると、イケメン彼はホンモノを見抜く力があり私(主人公)の価値を見出し、いつしかラブラブに。韓国ドラマでよく見るシンデレラストーリー。

ホントかい、と何回もツッコミを入れながらも見てしまう。

昔から、人の価値を見てくれで決めるのはどうだろうという考えはある。美しくないだけで差別されるのは勿論、綺麗なだけで評価されるのが不本意な人もいるだろう。例えばピアニストはビジュアルで語られるのは嫌がる、演奏で評価されたい。。俳優さんだって、美しいことばかり評価されるのは嫌だろう。演技褒められないとね。

美しさがかえって邪魔なこともある。ものすごく美しい人は幸せかと言うと、案外不幸な人が多い気もする。

桐野夏生「グロテスク」の主人公は妹(絶世の美少女)ユリコの美貌ゆえに、幼い頃からコンプレックスを感じているが、当の妹は幸せな人生ではない。まあ突き抜けているから、ユリコ本人はもう世の中俯瞰で見ている気もするけど。

今、美を求めようと思えば、写真アプリでも、化粧でも、いくらでも美しくなれる時代だからこそ、そんなのはどうでも良くなる人は増えるかもしれない。

見てくれを口にするのは失礼な世の中になりつつあるし。世の中がそう言う言葉に敏感になっている。「綺麗だね」と女の子におじさんが言うとセクハラ。

「イケメン」って若い男の子に言ったらセクハラになるのかな。今のところ大丈夫だろう。使い勝手が良い言葉なので使えないと寂しい。隠語として残るのかな。

「仕事できてかっこいいね」はいいけど、「イケメンね」の評価は良くないのか。あんまり敏感なのも窮屈だ。

ルッキズム。世の中、それで動く人は多いし、各自心の中に持っているもの。

大人になっていい顔になる。中身のある人、充実した人生を生きてる人、所作の美しい人は美しい。けれどそれはルッキズムとは言わない。

そう言う美しさがわかるようになると、心の豊かさ、幸せは増えると思う。

価値はさまざまだもんね。見てくれに踊らされないで生きていこう。人に対しても、自分の外見にも。



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