井田幸昌

魂が魂を描いている――
一瞬の躍動を、迷いのないストロークが可視化する。

描きたいという、姿のない魂が、筆を手にとるために人の形として存在しているのだと感じた。

井田幸昌という画家から感じたそれは、私が角野隼斗から感じる「音楽」と似ていた。
角野は演奏の中で「音楽」になる。音楽と一体化する、などというレベルとは似て非なる、もっと剥き出しの丸裸で純粋な音楽そのものに。身体は器でしかないと言わんばかりに、内から音楽が堰を切って溢れ出すのだ。

井田のダイナミックな画法が更に強く感じさせるのかもしれない。大きなストロークの手元を見ているだけでは何を描いているのか全くわからない。しかし力強く繰り出される筆から目が離せず追いかけるうち、井田の描く世界が辺り一面を塗り替える。画面越しに見ているのに溶剤と煙草の匂いがする。全てが井田の色彩と質感の中にあると思わされる。艶めかしい絵具が体に絡みつき、蛇が肌を這うような恍惚。溶かされ呑み込まれてカンバスに塗り込まれる感覚――。

かつて、希死念慮のようなものを持っていた10歳頃。家族で行った龍泉洞の地底湖があまりに美しくて「ここに沈んで死んだら分解されてこの美しい水になれるのではないか」と強く惹かれ、以来、胸の奥にあの地底湖がずっとあり続けていた。

角野の奏でる音は私にとってあの美しい水である。限りなく透明で、青とも緑ともつかないグラデーションが蝶や孔雀の構造色にも似て、目くるめく遊色に誘われるまま沈み、溺れる快感。神聖で、それでいて底の見えない怖さ、大自然、宇宙、創造主への畏怖のような、なんとも言えない大きな存在――
今は死にたいと思っていないので感情の向かう先に死はない。あるのはむしろ生ある命だ。角野の音楽は神がかった近寄りがたい崇高さと、親しみやすい朗らかな明るさ、楽しさ、不器用なまでの誠実さ……様々なものが混じり合っている生々しい命。井田の絵の中に塗り込まれていく感覚もまた、感情を大きく動かされる神がかり的かつ生々しい命だった。

似ている、と感じたのは井田の絵が角野の演奏と絡み合ったバイブスによるものだから、でもある、とも思う。しかし紛れもなく井田の魂と角野の魂が合致した先に生まれた、井田の絵だ。部屋に飾りたいという物欲を通り越して、あの絵に塗り込まれ、閉じ込められたいと強く感じた。



あの日……かつてドラクロワがショパンを描いたように、芸術家と芸術家の触れ合い、ぶつかり合いを見た。なんという幸運。なんという時代。昔なら死んでもお目にかかることなどなかったであろう芸術家の時間を共有させてもらえた幸福。

角野隼斗をきっかけに、知らなかった世界が広がる。そしてまた、井田から広がる世界もあるだろう。世界は広い。一生かかっても全てを知ることなど叶わない。しかし「好き」から次の「好き」へと広がる道筋の先には、きっとまた「好き」に出会える予感がする。これからも、たくさんの「好き」を感じたい。そして「好き」を見せてくれる全ての芸術家に、感謝と敬意を。



■さいごに
井田さんを知ったあと、インスタをフォローしたらすぐにライブの通知がありまして。そりゃもう行くしかないでしょ、と思いおじゃまするも、私は緊張して挨拶もできずに静かに見てるだけでした。井田さんすごい人すぎて気軽に質問できないなとか、元々の井田さんファンの方とはどういうコミュニケーションをとっているんだろうとか、そんな感じで。

そしたら話題が漫画の「ONE PIECE」になってびっくり。えっ、井田さんワンピ好きなの!? 最近追えてないけど私も大好きなので、テンション爆上がりプラス親近感が超ご近所になって、井田さんにご挨拶もしていないのに「ワンピ好きです!」みたいな唐突なコメントをしてしまいました。

井田さん、その節は距離感バグってしまい大変失礼致しました!
秋が好きとおっしゃっていましたね、いつか井田さんの描く四季、そして桜を見てみたいです。

4/5追記
かてぃんさんの肖像を描いてる井田さんが鬼かっこいいので見て


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