AIにとって面白くない小説は逆に「面白い」のか?

はじめに

 私とかは、日々の雑務や作業なんかをし終わって、ふと息をついたときに「なんか面白い話を聞きたい」と思うことがある。
 とはいえ、何か本を取り出すまでじゃなく、三分間で気軽に食べられるおやつのような、掌編小説を読みたいと思ったりする。
 時代はタイムパフォーマンス。つまりタイパが重要である。
 だから、人工知能に「面白い小説を頼む」と言って、出力してもらうのだが……。
 絶妙に詰まらないのである。
 面白い・面白くないは各人の主観だから、皆に実例を出して披露したくはなるのだが、しかしその時間を惜しみたくなるくらいにはつまらない。
 そこで、逆に人工知能が面白くないと思う小説を書いてもらおうと決意したのである。
 そして、その報告がこの文章である。

面白くない小説はアンチテーゼとして面白くなってしまう

 まず、最初に人工知能が「面白くない」とされる小説は二つの要素で構成されている。

  1. 期待される冒険や変化、成長の物語が無い

  2. 主人公の日常と内面の変化の欠如

 これは、だいたいのライトノベル創作読本で書いてある指南に書いてあるところで、思い当たる節がある人もいるとは思う。だいたいの小説が、主人公に対する障害を提示し、それを乗り越えることで、主人公が成長する。これが基本である。
 では、その要素を無くすとどうなるか。

タイトル: 「魔法の石の秘密」

 第一章: 平凡な村

 かつてないほど平凡な村、グレイヴィルには、特に注目すべきことも起こらない。村の少年、ジェフは、毎日を退屈に感じていた。彼には夢があった。それは、外の世界を探検すること。しかし、彼の日常は、家の手伝いと村の学校へ通うことに限られていた。

第二章: 魔法の石
 
 ある日、ジェフは森で輝く石を見つける。それは、小さくて青く、不思議な光を放っていた。彼はそれが魔法の石だと直感した。しかし、彼が石を持ち帰っても、村の人々は興味を示さなかった。彼の両親も「またジェフの空想話だ」と笑い飛ばした。

 第三章: 石の秘密

 ジェフは石が魔法の力を持っていると信じて疑わなかった。彼は毎日、石に話しかけ、それを大切にした。しかし、石は何の反応も示さない。ジェフは石に名前をつけ、それをポケットに入れてどこへでも持ち歩いたが、石はただの石のままだった。
 
  第四章: 変わらない日々

  日々は過ぎ、季節は変わっても、ジェフの生活に変化はなかった。魔法の石も、彼の人生に何の影響も与えなかった。ジェフは徐々に石に対する興味を失い、最終的にはそれを森に戻すことにした。彼は石を地面に置き、「君はただの石だったんだね」とつぶやいた。

 終章: 平凡な結末

 ジェフはその後も平凡な日々を送った。彼はやがて、外の世界への憧れを忘れ、村での生活に満足するようになった。魔法の石の冒険は、彼にとって遠い記憶となった。そして、彼は村で最も平凡な大人の一人として、静かな人生を送るのだった。


 この出力を、人工知能は「物語の展開やキャラクターの発展が限定的で、結末に至るまでのドラマやサスペンスがほとんどないため、一般的な意味での「つまらなさ」や「下手さ」を目指した作品」というのだが、私にとっては「つまらない」とは思えないのだ。

 もちろん、この小説は、一般的に求められているファンタジーではないというのは間違いない。その意味では「何か起きそうで起こらない」という意味で、つまらない小説になっている。例えば、普通なら「魔法の石」を空想話だと一笑するシーンでは、実は本当は魔法の石というのが、ファンタジーで求められることのはずだ。

 確かに、私も子供の頃は空想家で、こういった石をよく持ち歩いていたりしていて、賢者の石だと言い張ったりしていた。恐らく、ファンタジーが訴えかけるのは、このような子どもの空想に対して、承認を与え「君は間違ってないよ」という慰めを提供する部分にある。だからこそ、ただの石は賢者の石でなくてはならない。

 しかし、現実社会においては「君はただの石だったんだね」と、ポケットに突っ込んだ石を手放す時期というのはやってくる。それが、子供から大人になるということであり、ある意味では、空想の世界に引きこもることをやめ、現実の世界へと旅立つきっかけになる。

 ある部分においては、これは「大人になるということの寂しさ」を、ファンタジーという題材を通じて良く表現している。

 この辺についての意見は各人あるとして、ここでのポイントは「あるジャンルにおいて求められる要素をただ抜いただけでは面白くない小説になるわけではなく、そのジャンル自体を裏切っているアンチテーゼとして面白い小説になる」と、この作品を評することができる。

つまらない要素が全部入ると矛盾し面白くなる

 さて、次に人工知能が「つまらない小説」は次のような四つの要素で構成されていると言う。

  1. 退屈な環境描写

  2. 予測可能な展開

  3. 無気力な主人公

  4. 冗長な説明や対話

 これは確かにそうだろう。先ほども述べた通り、物語にとって「読者への裏切り」こそが面白さの原動力であるとするならば「予測可能な展開」はかなりつまらなくなるはずだ。実際に、面白くない小説の揶揄として「展開が解ってしまう」というのがあるくらいだ。

 当然ながら、環境描写も生き生きとしたものにする必要があるし、説明や対話も長すぎると、読者が何の話を聞かせられているのか、と思って飽きてしまう。これらは理解可能な範囲である。

 しかし、実際にこれらの要素を全部入れて小説を書くとどうなるか。

タイトル: 「灰色の冒険」

第一章: 退屈な日常

 主人公のジョンは、どこにでもありそうな小さな村で暮らしている。村は灰色の建物ばかりで、特に目を引くものはない。ジョンは毎日、村の広場をぶらぶらと歩き回り、特に何もすることがない。彼は自分の人生に退屈しているが、それを変える気力もない。

 第二章: 予測可能な出来事

 ある日、村に一人の老人が現れ、ジョンに「選ばれし者」だと告げる。ジョンは特に興味を示さないが、老人は彼に世界を救う使命があると説明する。ジョンは渋々、老人について行くことに同意する。彼らは村を出発し、長く退屈な旅に出る。

第三章: 冗長な説明と対話

 旅の途中、老人はジョンに魔法の世界について長々と説明する。その説明は非常に詳細で、関連性のない情報も多く含まれている。ジョンは半分聞いているふりをしながら、ただ歩き続ける。時折、彼らは他の旅人と出会い、長々とした会話を交わすが、その内容は物語の進展にほとんど関係がない。

第四章: 退屈な冒険の続き

 ジョンと老人は、いくつかの町を通過し、いくつかの障害に遭遇する。しかし、それらの出来事はどれも予測可能で、特に印象に残るものはない。ジョンは相変わらず無気力で、冒険に対する興奮や関心を全く示さない。

第五章: 盛り上がりのないクライマックス

 物語のクライマックスで、ジョンは世界を脅かす悪の存在と対峙する。しかし、その戦いは短く、あっけなく終わる。ジョンは特に努力することなく勝利を収め、世界は救われる。しかし、彼はその勝利に何の喜びも感じない。

 終章: 変わらない日常

 冒険を終えたジョンは村に戻る。村の人々は彼を英雄として迎えるが、ジョンはそれに特に反応を示さない。彼の日常は以前と変わらず、退屈な日々が続いていく。物語は特に教訓や感動のないまま、淡々と終わる。

 この小説は不思議な魅力があるのだが、ここでふと気が付いたのである。
 
 そもそもファンタジーにおいて無気力な青年が出てくること自体が、予測不可能な状況であるのではないか?と。

 実際のところ、この小説の魅力というのは、少年から青年期にかけて陥る世界観にあるとは思う。実際に、陰鬱さや憂鬱さを表現するために、このような灰色の世界を描写し、それが故に、はみ出し者であったり、思い悩んでいたりする若者たちに刺さるカルト的な作品が生まれることがある。その意味では、この小説にもそういった「鬱小説」に似た、独特の魅力がある。

 特に主人公の病的なまでの無感動さだ。確かに、小説のキャラクターというのは、なぜか喜怒哀楽を無駄に表現したがることが多い。それがある種の「予測可能性」というものを生み出しているとするならば、この主人公はトリックスター、つまり「状況をかき乱すもの」として十分な魅力を持っている。この小説以外で何かキャラクターとして成立しそうな印象がある。

 これはファンタジーにおける「予測可能な展開」が「無気力な主人公」という、明らかにファンタジー世界では予測不可能な異質な主人公として現れ、そして「退屈な環境描写」と「冗長な説明や対話」によって、テーマの一貫性を与えており、独特の魅力を与えている。

理詰めで面白くなくすると散文詩として面白い

 さて、最後に今度は読者に対して不評な小説という指定で出した小説である。人工知能にとって、不評になる小説は下のような小説らしい。
 
 1. 無意味なストーリー
 2. 不条理な展開
 3. 誤った情報の使用
 
 もちろん、このような小説が読者の不快感を与える仕組みであることは間違いない。基本的に、嘘話を「嘘」として純粋に楽しめる人は少ない。多くの人は何らかの「嘘」から、なんとか意味を見出そうとするし、また物語に対して一貫性を望むというのも間違いない。これらの要素が、読者におって、物語を楽しもうとする姿勢と反することは間違いない。

 だが、実際に出力してみるとどうだろうか?

タイトル: 「なんでもない日の奇妙な冒険」

 はじめに

 これはとても重要な話です。でも、重要じゃないかもしれません。主人公はボブです。ボブは特に何者でもありません。彼は時々、自分が誰かを忘れます。

 第一章: ボブの朝

 ボブは目を覚ます。いや、実はまだ寝ている。彼は朝ごはんにパンケーキを食べたいと思っています。でも、家にはパンケーキがありません。彼は代わりにソーセージを食べます。いや、それは彼の隣人の犬でした。

第二章: ボブの仕事

 ボブは仕事に行きます。彼はバスに乗るつもりですが、実際には自転車で行きます。彼の仕事は重要です。彼は宇宙飛行士です。いや、実は彼は郵便局で働いています。彼は手紙を配達しますが、すべての手紙を間違った家に配達します。

第三章: ボブの帰宅

 ボブは家に帰ります。彼の家は大きいです。いや、実はとても小さいです。彼は鍵を忘れたので、窓から入ります。家の中には、彼が知らない人がいます。それは彼の妻です。彼は忘れていました。
 
 第四章: ボブの夜
 
 夜、ボブはテレビを見ます。テレビでは、彼の好きな番組が放送されています。それはニュースです。いや、それはカートゥーンです。ボブは眠ります。いや、彼は全く眠れません。彼は外に出て、星を数えます。でも、空は曇っていて星は見えません。
 
 おわりに
 
 ボブの一日は終わります。何が起こったのか、誰にもわかりません。もしかしたら、何も起こらなかったのかもしれません。これが物語の終わりです。いや、始まりかもしれません。

この奇妙は作品は、状況を対比させ、打ち消しあっていることによって成立しているのだけれど、しかしだからこそ、妙に考えされるというか、何やら妙な現実感が与えられている。

例えば「彼は時々、自分が誰かを忘れます」といった下りであったり、あるいは「それはニュースです。いや、それはカートゥーンです」という下りは、「彼は外に出て、星を数えます。でも、空は曇っていて星は見えません。」パンチラインとして絶妙であり、表現としても尖っている。

もちろん、今宵の人工知能はコンプライアンスにより、エログロ・ナンセンスにはってきり弱いという事情もあるので、徹底的に読者に不快感を与える小説を出力するのは難しいというのを加味し、そしてこれは小説というか散文詩である、という点を差し引いても、興味深いものになる。

暫定的な結論: 面白さやつまらなさは、その意図の失敗の仕方によって決定される

 さて、これらの小説を見た通り、実際のところ「面白さ」も「つまらなさ」も、その意図が成功するかどうかによって決定されている部分がある。

 例えば、貴方はお笑い芸人が漫才をやるときに「これから笑わせるぞ」というトーンになった途端、急に覚めてしまったことはないだろうか?あるいは、小説なんかにしても「ああ、ここから作者が面白いと思っている部分なんだな」と認識した途端、覚めてしまったことを。

 別の観点から言い換えると、あなたが小説を趣味で書いているとして(恐らく、こんな文章を読んでいるのだから、そのほうが多いかもしれない)、あなたが意図した場所が上手く刺さらなかったり、あるいは意図しなかったことを「面白い」と言われたりしなかっただろうか?

 実際のところ、人工知能ですら「意図」というのを扱うのは難しい。意図することによって、意図と反するものが、その外側に生まれてしまうのである。そして、私のような捻くれた読者が意図とは別のところで喜んだりするのである。

 言い換えれば「多少なりとも意図と反する行為」こそが、解釈であるともいえる。

 ここで、これら三作品を見直して、一つの暫定的な結論・仮説が導き出される。面白さや詰まらなさというのは、意図的に生まれると同時に、意図の失敗の仕方が重要である、ということだ。

 言い方は難しいが「つまらない小説」というのは、意図が失敗したときの、その失敗の仕方が下手なのである。

 私を含めて、創作家であるならば、作品に何らかの意図を込める傾向にあると思うのだが、意図が必ずしもうまくいくわけではない。むしろ、意図を失敗した際の効果に、その作品の魅力が現れる場合があることがわかる。