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スウィフト『召使心得』――見ようとする精神に「風刺」が宿るのだ

 最近、良く一人で籠もって考えることがある。その考えていることの一つに「風刺」という言葉が余りにも気前よく使われすぎやしないか、ということである。その用法を、ウィトゲンシュタインに習って、じっと観察していると、皆が皆、「風刺」というものを、相手の対象を滑稽に見せて笑うものを刺しているように思える。それは、僕が「風刺」と思うものと何か違うようなものがしていて、その違いとは何かを考えざるを得なかった。

 そういうわけで、僕は図書館に向かって一冊の本を手にすることにした。スウィフトの『召使心得』だ。そしてそれを読みながら、スウィフトが持つ、その「見る力」に驚いてしまったのである。明らかに、この文章は「ガリバー冒険記」よりも、圧倒的に風刺の精神が満ちているように思うからだ。

 『召使心得』というのは変な文章である。

 確かに、一読してみれば「召使根性」みたいなのを皮肉っているように見えるのだが、しかし同時にこの文章は「使える」という両義性を持っている。共感的であるとは思えないけれども、ただどこか「召使根性」に対して、幾分かの正当性を認めているように思える。「ガリバー冒険記」に満ちている人間嫌いな部分より、全くもって人間に対して愛情を持って見ているように感じるのである。

 それはどうしてかというと『召使心得』が「ズルが持つ制度的な仕組み(エコノミー)」を書き出しているからだ。

 元々、アダム・スミスにしろ、マルクスにしろ、その「経済学」の発想をする上において人間学的な視野から、むしろ人間がそれぞれ取り持つ力学のほうへと考えを転換した。人を観察していると、人はそれ単独で完結しているのではなく、様々な力学の結果として人がいる、ということを発見せざるを得ない。しかし、それを既に発見していたのはスウィフトなのだという思いがしてくるのだ。

 『召使心得』を読むと、例えば、ロウソクを取り替える分において、そのロウソクをちょろまかす。こうすることで、ロウソクを手に入れるというズルを手に入れる。一方で、料理人は料理人で、料理をしながらも、余った食材をパクったりする、ということが書かれている。

 召使根性というのは自分がズルをしていたとしても、他人がズルをすることはどうしても許せない、という側面がある。恐らく凡庸な風刺家ならば、ここで止まってしまう。つまり「あいつはズルしている」という告発により、のし上がっていくことを召使根性と言うことも可能だ。事実、スウィフトも似たようなことは書いている。

 しかし、それはどうも召使い達のエコノミーとは実態がズレていると思ったのだろう。スウィフトは観察を続ける。ある時、料理人と使用人がロウソクと食材を交換しているのを発見する。恐らく推測だけど。このときに召使根性を超えて、召使いのエコノミーを発見する。つまり、お互いのズルを交換しあうことによって、ズルという制度が成立していることを発見するのだ。(そして現代の「ズルの告発合戦」とは、まさにこのような「ズル」のエコノミーが破綻したところにある、ともいえる!)

 スウィフトの風刺の真骨頂とは、まさにここに存在していると言える。風刺の精神とは、凝視することにある。凝視すれば、そのシステム自体が、その個々人だけではなく、総体として浮かび上がっていることがわかるのである。

 実際に、スウィフトの他の文章は「見ること」と「そのシステムの総体」におけるものを書き出している。そして「見ること」というのは、どうしても、例えば「気高くしている美人だってウンコする」という発想に結びつくわけだし(『淑女の化粧室』はそれ)、そして「占い歴」に関しても、暦における権力性、すなわち「このときに人が死ぬ」と書いたときに、その人が死んだかのように人々が動き出す、その変さを書き出すのである(『ビカースタフ文書』)。

 恐らく、僕が今宵の「風刺」と呼ばれるものに対する違和感はここに存在しているといっても良い。要は「優れた風刺」というものは、私たちが本当には見ていなかったこと、ちゃんと見ることを、喜びを持って教えてくれるのに対して、「凡庸な風刺」というのは、端的に見たいものしか見ていないという結論にしかたどり着かないのだ。前者のような風刺をキニカルと呼ぶだろうし、後者のような風刺をシニカルと呼ぶ。

 「見たくないものを見る」というのは、本来苦痛なものである。苦痛なものは続かない。従って「見たくないものを見る」ということに、喜びを与えなければならない。スウィフトの風刺には「見たくないものを見る」ということに対して、喜びを与える。「見ようとする意思、喜びを持って見せようとすること」にこそ、自由の精神が宿る。私たちの不幸は、常に、そして未だに、スウィフトのように見ることが出来ないままでいること、それに尽きると言えるのだ。