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『ドン・キホーテ』あるいはメディアの狂気と「アンチ自己啓発小説」

 イタロ・カルヴィーノは、名著である『なぜ古典を読むのか』という本で、古典というのは「今読み返しているのですが……」という恥ずかしさを持つ本であると述べている。
 と、同時に「読み返す」ことで、また同時に豊かな解釈が開かれる、と言ったことを述べている。
 そういう類の本というのは、自分にとっては『ドン・キホーテ』であり、「今読み返している」と言いながら、つい最近、こっそり読んだ本でもある。

 『ドン・キホーテ』は、一般的には近代小説の走りと呼ばれていて、さまざまな作家や研究者によって、熱く語られている。
 こう言うと、何かつまらなさそうな本だな、という気もするのだが、これがやたらめったら面白い。
 というのも、主人公のドン・キホーテが、明らかにSNSにいそうなキャラクターだからである。

 言ってしまえば、ドン・キホーテというのは「意識高い系」なのだ。
 市井の善良な市民が、騎士道という崇高な理念を持つ騎士に憧れるどころが、騎士であると思い込み、風車に突っ込む姿というのは、まさにビジネス書を読み漁り、「俺は市場を取るんだ」と興奮する起業家志望の若者にそっくりであり、あらゆるところにビジネスの臭いを読み取るのは、ドン・キホーテが風車を巨人と思ったり、修道院の学士たちを邪悪な魔法使いと思うところと一緒なのである。
 現代の「意識高い系」が、あらゆるところにビジネス書と同じことを書いてある、と現実を着色するのと、ドン・キホーテが騎士道と同じことが書いてある、と言いながら、現実を歪めてみせるのはあまり変わりない。

 ドン・キホーテの反論の仕方も「意識高い系」の人達ととても似ている。
 当然、現実というのは騎士道だけが全てではない。だからさまざまな忠告が述べられるのであるが、ドン・キホーテは「そんなものは騎士道に反している」だとか、「騎士道の本には書いていない!」だとか、「俺を侮辱するつもりか」とか怒ったりする。周囲はそもそもお前は騎士じゃないんだから、と思っているが、ドン・キホーテは騎士だと思っているわけで、そのズレである。

 ドン・キホーテは十七世紀初頭、それこそ十七世紀が始まろうとしていた時代に書かれた本であるが、余りにもドン・キホーテの類型が今のSNSで見る「困った人達(それは俺も含まれている)」に似ているわけで、なぜこんなにドン・キホーテが「SNSにいるような人達」に似ているのだろうか、と思ったのである。
 確かに類似性があるというのを指摘するのは簡単なのだが、その類似性にはそれを生み出している根っこがあって、そこが重要なはずなのである。そして、ずん飯尾みたいに現実逃避しながらゴロゴロしていたら、ある結論が出たのである。
 セルバンデスが無意識のうちに、その小説の中に閉じ込めてしまったのものというのは「メディアの狂気」だったのである。

 元々、あらゆる書籍というか、メディアというのは、同化作用というものが働いているように思われる。要するに「あなたは私のようになりなさい」という作用である。
 これは、小説作法を紐解けば、「主人公は読者に感情移入できるような人物でありなさい」と書いてあったり、広告の形式が「このような生活を素晴らしいと思いますか?ならこの商品を買いなさい」と触発したり、あるいは役者や芸人を見て「あんな面白い人/かっこいい人になりたい」と思ったり。それこそ挙げればきりがない。それこそが、メディアの効果であり、また人の欲望というのは、そのような同化作用であるということが出来る。
 そして、現代に生きる以上、その同化作用を拒絶して生きることは出来ない(同時に、サンチョ・パンサが無学で貧乏な農家であるサンチョ・パンサが、段々と騎士の従者にふさわしいふるまいをし始めるのも、このような同化作用であるともいえる)。

 『ドン・キホーテ』を読むと、セルバンデス自身が、とても読書家であると同時に、その読書家たちと共に過ごしたことが見て取れる。
 例えば、ドン・キホーテが狂ってしまったのは書籍のせいだ、書籍を燃やそうと周囲の人間が集まってきたときに、一冊ずつ本を点検するのだが「これはいい本だから残しておこう」とか「それ名著なんだよな、だからとっておこう」と選別する姿は、まさにコレクターが死んださいに分配するやり方にどこか似ている。この小説全体にわたって、そういった「読書家空間」というのが立ち上がってくる。

 「メディアの狂気」と書いたが、狂気というのが一般化してしまえば、それは正常になってしまう。
 セルバンテスがドン・キホーテの狂気を書くと同時に、そういった読書にまつわる様々なことを書いたのは、セルバンテス自身は意識しなかったにしろ、いわばまだそういった同化作用といった「メディアの正気」が、まだ「メディアの狂気」であるという時代を鋭く書いていたからに違いない。わたしたちは、既にメディアが送り込んでくるさまざまな「あなたは私のようになりなさい」というメッセージを当たり前の如く吸収し、そしてそのように生きることこそが、良き人間であると教えられている。
 つまり、我々はドン・キホーテのようにならなければ生きられなくなってしまったとも言える!

 『ドン・キホーテ』が未だに素晴らしいのは、この小説が結局のところ「メディアをめぐる物語」であり、グーデンベルクの本が生まれてきてから、さまざまな形で「メディア」が侵食し、もはやメディア無しで生きられない以上、「メディアをめぐる物語」である『ドン・キホーテ』が死ぬこともあり得ない。そして、もし一つ言えることがあるとするならば、このような「メディアの正気」に対して距離を取るという狂気を選ぶこと、これこそが教養の役割であるということは言えるかもしれない。

 ここまで書いているが、そのような解釈を抜きにしても『ドン・キホーテ』はただ面白い。それはセルバンテスがこういう人物が出てきて、それがやんちゃなことをしたら面白い、という良い意味での悪ふざけが光っているからだ。彼も別に世界文学を書こうなんていう意識は、恐らくなかったように思う。
 頭おかしい人が、頭おかしいことをしているだけで面白いじゃないですか。それでいいんですよ、小説というのは。たぶん。