ブランニュー・マイ・クローゼット
「お姉ちゃん、その服ボロボロじゃん」
食卓テーブルに着くなり、隣の志保が覗き込んでくる。
「新しいの買いなってー」
久しぶりに会った妹の視線は、私の着るトレーナーに向けられる。ヨダレ染みにまみれた、グレーのボーダー柄。胸元には毛玉が目立つ。
「もう既婚者よ?」私は隠すように身をよじり、「今さら田舎でオシャレしてどうするの」
「既婚者とか関係ないってー。モテるために服着るの?」
「違うけど、あんたみたいな派手な恰好、こっちだったら指差して笑われるから」
ゴールデンウイークの初日。帰省した志保の服は、相変わらずキラキラしている。さすが東京は華やかだ。こんな装いで町内を歩こうものなら、ご近所さんから後ろ指を指されかねない。
「派手かなー」志保は唇をすぼめて、「これくらいバチッと着なきゃ、楽しくないんだよね」
「おまえはハイカラすぎるちゃ」
父がぽつりと言うと、「ハイカラって死語だよお父さんー」と笑う志保。無口な父はそれ以上応えず、音を立ててお吸い物をすすった。
私は「いただきます」と告げてテーブルに向き直る。すき焼きの大鍋がドンと置かれ、傍らには特大の寿司桶。煮物やカマボコの盛られた皿も並ぶ。
「はいはいお待たせー」
ぱたぱたとスリッパを鳴らして母がキッチンからやってきた。両手には大きな丸皿。
「うわー、豪華!」
これでもかと盛られた刺身を前に、志保が大げさに声をあげる。
寿司があるのに刺身盛りか。帰ってきた末娘への歓迎が見て取れる。私が夫と住むマンションはここから目と鼻の先で、日に一回は実家を訪れるので、家を出たという実感は薄いだろうし、両親が妹に浮足立つのも頷けた。
「たまには服買いに行ったらー?」なおも志保は食い下がる。「気分だって変わるよ?」
「服を買いに行く服がないって」
肩回りはヨダレの跡でカピカピだ。こんな恰好でオシャレな店に入れば、それこそ店員や客に笑われる。
「じゃあさ、ネットでポチるとか」
「通販はたまに使う」私は袖をつまんで、「これもそうだし」
「えーなんでグレー選んだの。他にもカラバリあるでしょ。てか思い出した、お姉ちゃんピンクとかオレンジ好きだったじゃん!」
「いいのグレーで。どうせ汚れるんだから」
語気を強めて会話を打ち切った。
逃げるように寿司をつまむ。胸の奥がうずうずして煩わしい。
三年前に結婚し、二年前に娘が産まれた。育休のつもりがそのまま仕事をやめた。幼稚園に入れたら働こうとは思うが、まだ具体的に考える余裕はない。母が近くにいたから何とかやってこられた。共働きの人はどうしているのか、想像も及ばない。
志保が鍋に箸を伸ばすたび、鮮やかな袖が視界に入ってくる。
なんてカラフルなワンピース。生地は白っぽいけど、水で滲んだような赤や黄や橙、それに青や緑まで入っていて、色味が多い。ツヤのある表面も目がチカチカする。裾は銀のテープで縁取られ、まるで子ども向けのシールみたいに光った。すごい服。私には到底、着こなせない。
不思議だ。同じ家で育ったのに、こうも姉妹で変わるものなんだな。
三歳下の志保は二十五歳。背が高くて、姉と妹、よく逆に間違えられた。大人っぽくて、人懐っこくて、晴れやかに笑って、まわりを温かくする。東京に出て向こうで就職した。ダンスは今でも続けているという。「趣味で夜にちょっと踊るだけ」と謙遜するが、見せてもらった動画には驚かされた。そのエネルギッシュな躍動を目の当たりにして、衰えないキラキラオーラも腑に落ちる。
東京での暮らし。彼女の毎日は、きっと充実している。
「お姉ちゃんって、どんな服着てたっけ?」
志保の言葉に私は即答できない。どんな服。わからない。普段着はこれと、洗濯して干してあるもう一着も、似たようなトレーナー。
「なーんそれが、ひどいがよ」
母がニヤけながら口を挟む。
「夏なんて服着るが面倒だからって、裸で一日中おったんやから」
「嘘でしょ!」志保が目を見開き、「いつから裸族になったの?」
「違うって、やめてよお母さん去年の話やねか」
母に目を細めてから、私は事情を説明する。
娘は頻繁におっぱいを欲しがった。吸わせてもすぐに胸をまさぐる。授乳のたびにTシャツをまくり、下着をずらし、元に戻すのは効率がわるく、起きているあいだは半裸で過ごした。おかげで娘は勝手に吸うようになった。ハイハイでやってきて、胸元に乗っかり、勝手に吸って満足したら離れる。
「だからって服着ないとか、お姉ちゃんズボラすぎ!」
志保が、けらけらと肩を揺らす。
「大変なんだよ。あんたは子育てしたことないから、そんな風に面白がれるの」
言ってから後悔する。育児マウントは取らないと決めたはず。それでも志保と話していると、言いたくないことまで吐き出しそうになる。
服装だけじゃない。手入れの行き届いたロングヘアー。その髪質は羨ましいのを通り越し、引け目すらおぼえる。肌ツヤもいい。私とは大違いだ。スキンケアもおざなりで、最近はオールインワンジェルすら塗り忘れる始末。風呂上がりは娘の保湿が最優先で、自分に構っていられない。
育児とは自分を諦めること。
子どもを産まなければ、私だって綺麗なワンピースを着ていたのだろうか。志保ほど派手じゃなくても、汚れを気にせず、明るい色を選べたかもしれない。オレンジとかピンクとか、そう、昔みたいに……。
頭に浮かんだ思考を振り払う。自分のことはどうだっていい。今はとにかく、娘のために日々を過ごすべきだ。
娘が爆発したように泣き出した。
大人しいと思ったら案の定、変な時間に目が覚めた。一足先に立ち上がった志保がベビーベッドに駆け寄る。
「お~、どちたどちた~。よ~しよしよし」
娘を両手で持ち上げて、胸元に抱く。
「いいよ志保、私やるから。服汚れるよ」
「平気平気。洗えばいいじゃん」
「……まあ、あんたがいいなら大丈夫だけど」
「可愛いねえー」
志保は微笑みながら上半身を揺らす。リズムが心地いいのか、えへっえへっと娘が笑う。
母と目が合った。「いいんじゃない?」という目線に甘えて、私はテーブルに戻る。妹のために並べられたご馳走を、いつもの食事より時間をかけて咀嚼した。
夕食のあと、二階の部屋に引っ込んだ。
娘は志保が遊んでくれている。下のリビングから、かすかな話し声と、時おり起こる笑い声が聞こえるだけで、静かだった。久しぶりの静寂に耳が落ち着かない。
夫は中学時代の同級生と飲みに出かけている。このまま今日は実家に泊まってもいいのだが、最近は一人の時間に何をしていいかわからず、スマホをぼんやり眺めるばかり。限られた貴重な時間はこうして浪費されていく。
服か――。
大手通販サイトを開いてみる。最後に利用したのは、今着ているトレーナーを買ったとき。何が欲しいというわけでもないので、試しにワンピースで検索を絞り込む。五万九千件のヒット。絞り込めていない。価格が安い順に並べようと操作すると、
「えっ!?」
声が出た。二十万円代の表記が並ぶ。誤って「価格が高い順」になっていた。
選択し直すと、千円代の羅列に切り替わる。安いから買ってみようか。だけど画像だけでは選びにくい。ページを一つひとつ開くのも億劫で、ただスクロールを続けていると、読み込み中のまま止まった。スワイプして閉じる。
めんどくさい。新しいワンピースなんて必要ない。
二十万は高すぎる。と、衝撃が遅れてやってきた。売っているからには、買う人もいるのだろうが、住む世界が違うのだ。生まれは富豪か、高所得者か、はたまた独身の道楽か。私にとっては、どこまでも、服は遠くにある。
「服なんて意味がない」
よく夫が口にする。システムエンジニアとして働く彼は、同じシャツと同じパンツを三着ずつ買い、着古したら捨てて同じ方法でまた揃える。何を着るか迷う時間は無駄だと、言い切っている。
私もそう思う。オシャレをしている暇があるか。服を買うのも、着るのも、ぜんぶストレスだ。考えたくない。服なんか着たくない。半裸で過ごしたって気にならない。
部屋のクローゼットに目が留まる。
随分と扉を開いていない。実家を出るときに持って行った服はほとんど送り返して、ここに眠る。二着のトレーナーを交互に着る毎日が、私にとっては当たり前で、ほかの服に着替えることはなくなった。
だって私は子育て中。母というものは、一度クローゼットを閉めるのだろう。
スマホに目を戻すと、メールの通知があった。
別の通販サイトのメールマガジン。
結婚する前に登録して、今も定期的に届いている。退会手続きが億劫だった。ずっと読まずにゴミ箱へ移動させていたのに、今日は覗いてみたくなる。
リンク先に飛ぶと、手書き風のフォントで彩られたページが開く。柔らかい雰囲気が懐かしい。昔はよく利用した。ここで買った服がクローゼットに眠っているはず。
どのページを開いても、きれいな服が出迎えた。写真は温かい。全体から細部まで、丁寧に伝えようとする撮影者の心意気は、スマホの小さな画面越しにも感じ取れる。
気の向くままに、夜遅くのウインドウショッピングを楽しんだ。ネットなら何時だろうと、いま何を着ていようと関係ない。気後れせずに閲覧できる。
そして、突然だった。
呼吸を忘れて見入った。
それは花柄の白いワンピース。
花柄といっても、色もかたちも違う、いろんな花が描かれている。
明るく元気で丸みのある赤い花。
涼しげに花びらを開いた青い花。
可愛らしい房を垂らす黄色い花。
華やかで大きく咲いた紫色の花。
花弁だけではない。緑色の茎から描かれていた。それが珍しくて目に留まったのかもしれない。花の一つひとつが、ちゃんと生きているように感じた。
商品説明を読む。その語りかける口調に、思わず何度も頷いてしまう。まるで服屋で店員から説明を受けているみたい。説明文なんて、ろくに目を通したことがなかった。たかがネットだと、雑な気持ちでポチっていた。
改めて服の画像を見る。
妹っぽいな。そう思った。
志保の着ている服に雰囲気が似ている。きっと簡単に着こなすのだろうと、キラキラした姿を思い浮かべ、画面に映った服に重ね合わせる。
そういえば彼女の誕生日は来月だった。
買ってみてもいいな。自分用には高いけど、プレゼントなら出せる価格。サプライズで届いたら喜ぶに違いない。自然と顔が綻んだ。決済画面に進んでカートの中身を購入する。送り先の住所は実家にした。一か月後に、手紙を添えて東京に送ろう。
達成感があった。まとまったお金を使うのは久しぶり。確かに、ストレス発散にはなったかもしれない。
「お姉ちゃーん」
階段下から志保の呼ぶ声。舌足らずで甘えるような音に、懐かしさが込み上げた。私も妹もこの家で育った。返事をしながら立ち上がる。今日は実家に泊まると、夫にLINEして部屋を出た。
*
初めての景色を目の当たりにしている。
連休が終わり、志保は東京に戻った。何てことのない平日の昼下がり。娘をベビーカーに乗せて、私は近所の公園にやってきた。
公園までの散歩はほとんど日課。代わり映えのなかった景色が今日は見違えるよう。植えられた木の、豊かに茂った新緑の色づきが眩しい。抜けるような空の色も、瑞々しい土の色も、遊具に塗られたビビッドな配色だって、すべてが生き生きと迫ってくる。
娘が私と目を合わせた。それから滑り台のほうを見やる。
「滑りたいの?」
イエスともノーともつかない、うにゃうにゃとした曖昧な返事。
「よし」
滑り台のそばにベビーカーを停めて、娘を抱きかかえる。
裾を踏まないよう、慎重に、ゆっくりと階段をあがった。
いい天気に心地よい風。地上から少しだけ離れて、私と娘がいる。
広がるのはどこまでも明るい光景。自分の着た服と同じように、華やかでキラキラと輝いて見えた。
私は今日、あの花柄ワンピースに袖を通している。
届いた段ボールを開けたとき、わかった。
ワンピースが欲しかったのは、私だった。
開封の感動が忘れられない。
茶色の包装紙をめくる。まるで土のなかから芽吹くように、花々が現れた。
きれいに折り畳まれた洋服の、ビニール越しに覗く鮮やかな花の色に、胸のあたりが火照る。
テープをとってビニールから出す。両手をかざして服を広げる。
生地の肌触り、リアルな色合い、実寸のかたち。初めて知る美しさの数々が、一気に押し寄せる。
手を伸ばしても届かない、画面のなかにあった洋服に、私は向き合っていた。
ページを見たときから、気づかないふりをしていただけ。妹に似合いそうだなんて、言い訳して、服を買うことから逃げようとしただけ。認める。認めるしかない。自分の気持ちに嘘はつけない。だからワンピースは私の一着になった。志保の誕生日には、ほかに素敵なものを探すつもり。
描かれた花々は、人間の骨から咲いていた。
グロテスクな感じはしない。人の内側から咲き誇る花。見たことのない、私らしくない柄に、どうして心が動かされたのか。それは、こうして着用してもわからない。理由がなくたって好きだと思えた。それで十分なほど、私は興奮し、満たされている。
商品ページの説明文を思い出す。
You&MIEは、私たち一人ひとりの個性を肯定し、
未来へ前進する力をくれるパワフルなお洋服ブランド。
オンラインストアに感謝した。
着て行く服がない、ダサい女だと思われたくない、だから服屋に行くのはハードルの高かった私が、ネットだからこそ巡り合えた。
今まで買った服とは系統が違う。だからこそ勇気が湧く。
私の、新しいクローゼットを開けたような心地になれた。
次に志保に会ったとき、彼女のような服を着てみたいと思えるかもしれない。もしかしたら、いつか二十万円のワンピースだって、デザインが気に入ってしまうかもしれない。きっと買えないけど、買えるかどうかは問題じゃない。買わなくても、その服を好きになったら、それは私の人生に関係したもの。服は遠くなんてない。最初から距離を置いて決めつけて、自分の世界を狭くしたくない。そう私は思った。
娘が、じっと私の肩を見ている。
いつもと違った装いを、不思議に思っているのかな。
珍しく顔をうずめてこなかった。ヨダレを付着させまいと気を遣っているように見えて、吹き出してしまう。
「いいの」私は言った。「服なんて、汚れていいんだから」
屈み込み、足を前に出して尻をつける。我が子をお腹に乗せて抱きしめる。
白いワンピースで、子どもと過ごしたっていい。滑り台を滑ってもいい。
子育ては諦めることが多いけど、自分をないがしろにしたらダメだ。
明日も私は、この子と生きていくのだから。
「いくよ、明日花」
私は娘の名前を呼ぶ。彼女が前を向いたまま、声を躍らせる。
弾みをつけて真っすぐ進む。私たちは風をきる。軽やかになびくワンピースの裾が、視界の端に色濃く残った。
――『明日のフリル』の物語へと続く
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