失っていく感覚

当たり前だけれど、人は変わってゆくもので
ふと多感な高校生だった自分を思い出す。

同級生の視線、言葉、親との関係、自分の気持ち、感情表現など、全ての歯車が上手く絡まらないそんな感覚。
何もかも感じ取りすぎて苦しかった頃に比べると、
いまは穏やかに過ごせるようになった。

気にしすぎる思考を止め、現実逃避を覚え、自分の感情をある程度把握し、苦しい時は美味しいものを食べ、悲しい時はゆっくりお風呂に浸かり、早く眠るようになった。

年を重ねるということでいえば、印象的なことが一つある。
短い白髪で、柔らかい雰囲気と対照的に
核心をつくような鋭さを持つ大学の講師が
「私ぐらいの年齢になれば、どんどん鈍感になっていきます。生きやすいですよ」
ふふふと笑いながらそう言い切れるのが羨ましいと思った。
それと同時に、怖いとも思った。

感覚を失うことは、中身が全部変わってしまうように感じた。
自分でなくなってしまうような。

実際に、年齢を重ねるごとに
鈍くなっている感覚はある。
あの多感な時期の繊細さは、
今の自分にはもう無い。
どうしてもそれが寂しく感じてしまう。

詩や文章を、あの全身で感じ取る感覚は鈍くなっているし、衝動的に文字に向かうことも少なくなっている。

得たものと、失ったもの。

確かにどちらもあるはずなのに、
ずっと失うことを恐れてばかりいるし
失ったものばかり数えているかもしれない。

得たものは、何だろう。

朝焼けを、木漏れ日を、水の反射を、徐々に暗くなっていく様を、上っていく月を、窓から差し込む月の光を、楽器の音色を、開いたページの一文を、美しいと思えることは増えている。
好きな作家も、食べ物も、好きな言葉も、好きな人も。増えている。



いつか、失ったことすら受け入れて
懐かしんだりできるのだろうか
それともその時でも、失ったものばかり数えているだろうか。

ぐるぐる考えたところでどうしようもないと
疲れ始めた頭で思う。


いまはただ、なるべくどちらも数え続けよう。

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