東洋哲学をチョイ学びしたらクソ上司がどうでもいい存在になった
みなさんは、過去に「クソ上司」と呼べる存在に出会ったことがあるだろうか。
多かれ少なかれ、誰しも自分と合わない上司に遭遇することはあるだろう。
クソ上司へのドロドロした思いに心を焼かれて眠れぬ夜を過ごした人もいるはずだ。僕もある。
もしも、実はそんな人間は存在しないとしたらどうだろう?
そう、そんな上司は存在しないのだ。
もう一度いう、
そんな上司は存在しない
今回は、最近読んだ本から、そんな話をしたいと思う。
とりあげる本はこちら。
正直、マジでクッソ面白い!
僕は本を読むのがそんなに早くないが、1日でイッキ読みしてしまった。
なにが面白いって
作者は東大卒のニート。
いわゆる意識高い系で一切仕事ができず、離婚して社会的なステータスを全てなくして実家の布団から出られなくなった。
虚無感に苛まれる日々から脱するために、東洋哲学の本を読み倒した。
その時の体験から、東洋哲学をめちゃくちゃ分かりやすく、身近な出来事に置き換えて説明してくれる。
ざっくりこんな感じである。
たぶん、これだけじゃこの本の面白さは3%も伝わってないと思う。
とりあえず本屋で冒頭だけでも読んでみてほしい。マジでハマるから。
なんか、スナック菓子を食べるようにサクサクと、東洋哲学の概念を読み進める事ができる。
その度にいままでの自分の考えが覆っていく。
「ああ、それってつまりこういうことか」と思いながらページをめくり、想像した通りの内容が書かれてた時なんか、自分が悟りに近づいたんじゃないかって思えるのが不思議だ。
人生にモヤモヤしている人には特にオススメしたい。
逆に、人生が上向きで、このまま好調でいたいって人には勧めない。
なんか色々と虚しくなってしまいそうだから。
物質としての自分
※ここから先は僕なりの解釈になるので、どこまで正しく理解できてるか保証できないことを断っておく。
仏教の創始者であるブッダ。
彼が悟った末にたどり着いたのは「無我」の境地だった。
「我が無い」と書いて無我である。
つまり、自分なんて無いということだ。
どういうことかというと、
いまこの文章を書いてるのは僕の指である。
でもこれ、見方を変えれば肉と血と骨の集まりにすぎないとも言える。
同様に、僕の体もまた、いままで飲食したもので構成されている。いわば食物連鎖の果てにいるキメラみたいなもんだ。それを本当に自分の体と言い切れるだろうか。
さらに言うと、人間の体は細胞レベルで新陳代謝を続けている。
一説によると3ヶ月で別物になるそうだ。
テセウスの船みたいな話だが、物体としての自分は常に新しくなり続けている。だとしたら3ヶ月前の自分と、今の自分は同じ物体といえるだろうか?
「タグ」が自分を自分たらしめている
龍樹というお坊さんがいる。
ブッダが亡くなって700年後に、ブッダの教えを再定義した人物である。
龍樹がいうには、ブッダの教えは「空」らしい。
どういう意味かというと、この世のすべては「フィクション」であるそうだ。
ーー例えば、僕はネット上でysという名前を名乗っているが、当然ながら現実世界にysという人間は存在しない。
noteやTwitterでysと名乗るアカウントがあり、それが周囲の人たちに認知されているだけである。
これがytであれば僕はytさんと呼ばれていただろうし、ymだとしても同様だ。
あくまで、ysは自分で名乗っているだけの記号でしかないのだ。
このように、僕らはそれぞれが持つ概念を自分自身であるように認知しているのだ。筆者はそれをフィクションと称していたが、「タグ」と言い換えてもいい。
会社員というタグ、男性というタグ、ysというタグ。
僕らはさまざまなタグを持っていて、タグは増えたり減ったり変化したりする。
また、タグによって相互の関係性が顕在化することも多い。
僕には妹がいるが、もしも僕がこの世にいなかったら、妹は妹ではなく、ただの一人っ子になるのだ。
兄がいるから妹もいる。関係を示すタグが、その人を定義する。
クソ上司、異動した後に会うと普通のやつになってない?
ここまで「本当の自分なんて物理的にも概念的にも存在しない」と主張してきた。
それはつまるところ、「本当の他人も存在しない」ともいえる。
ーーこんな経験はないだろうか
異動や出向で嫌いな上司と直接的な仕事の関わりがなくなったとき、ふとしたタイミングでその上司と再会して雑談をする。
そこには、かつてあった鬼の形相はなく、気付けば「◯◯さんの下にいた時が懐かしいですよー」まで言ってしまうことさえある。
いや、8割くらいはリップサービスなんだが、多少はそんな気持ちも湧くことがある。
これは、「クソ上司と部下」というタグが外れて、「元上司と元部下」というタグが付されたからだろう。
元部下に対して何を言ってもクソ上司の今が良くなるわけではない。そんな中で、昔のように振る舞う特別な理由がないのだ。
僕は長らく、この事象が大嫌いだった。「お前の本質はクソ上司だろ!なにを今更いい人ぶってんだ!俺にした事を忘れたか!」と思ってた。
違う、前提が違うのだ。
クソ上司も元上司も、目の前の肉塊にひっついてるタグでしかなく、中身はカラッポなのだ。なんならその肉塊の成分さえも絶えず変化し続けてる。
もちろん、相対する自分もカラッポである。
カラッポな人間同士が、それぞれの役割として会話を交わしてるだけなのだ。
ただ、自分にちょっとだけ「クソ上司の被害者」としてのタグがついてるだけで。
そう考えると、過去のクソ上司の全てがどうでもよくなった。
だって中身のない人間が自分の役割を演じてるだけだしね。
当時もいまも、変わらずみんなカラッポなんだから。
結論、東洋哲学はいまの生きづらさをちょっと解消してくれる
ここまで偉そうに語っていてなんだが、もし僕がまたクソ上司の下についたら、ここまで達観できない自信がある。たぶん、ふつうにクソ上司を憎悪すると思う。
だって理屈と現実は別モンだし。そもそも東洋哲学、論理の飛躍を前提にしてる感あるからなぁ。(私見)
ただ、こういう思想に触れることで、自分の思考に「幅」が生まれる。
幅が生まれることで、余裕ができて、生きづらさがちょっと解消される。
生きてるとしんどい事もたくさんあるが、しんどさが5%くらい軽減されるなら、なかなかのパッシブスキルじゃん、東洋哲学。
そんなわけで、オススメです。
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