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studio COOCAで見出した自分の存在意義。そして居場所。

父が創立した株式会社 愉快 studio COOCA(生活介護・就労継続支援B型事業所)は本年で15周年を迎えます。この節目に関根幹司は代表取締役社長を退任し、後任として私、スタジオクーカ施設長 関根祥平が新代表として就任いたします。
自分が人生に迷いながらも、福祉の道を志そうと考えていた時に、30年前の図録を掘り返して目にした文章。当時まだ社会福祉法人で施設長をしていた時のインタビュー記事で父はこう答えていました。「障害とは、その人が生きる社会の中でマジョリティ(多数派)に位置づけられるか、マイノリティ(少数派)に位置づけられてしまうかでしかない。少数派に位置づけられてしまうことで世間に知られていない。知られていないことで理解がされない。そこに問題がある。」日本で初めて(30年前)市街地にできた福祉の複合施設。街のなかでおきる様々な問題への対応に日々追われていた当時の状況から導き出した一つの解だったと思います。
その記事を読んで、「問いを持つこと。」そして「考えることの豊かさ」を知りました。今自分が人生に悩み、生きづらさを抱えていることは必要なことだ。自分なりの問いを立てて考える中で、自分なりの解を見つけていけばいい。そう言われている気がしました。
「福祉は特別なことではなく、自分たちが生きるうえで必要なことなんだ。」初めてそう実感した瞬間でした。この思考をもったことが私の大きな人生の転換点です。その後福祉の道に進んだことは、その意味では大きなことではなく、当然のことだったのかもしれません。その経験には感謝を止みません。ありがとう。

始まりは福祉だったんだよ。

福祉の世界でアートをすることが厚労省に奨励される時代。
30年前には余暇活動としての認知しかなく、福祉施設の事業としては認められていなかった状況から時代は変化しています。様々な先鋭的な福祉施設が、積極的な作品展示を通して国内外から高い評価を得てきたことによって、福祉の土壌は耕され、創作活動という主旨で福祉事業を行うことができるようになったことに先人への敬意を払いながら。
私が施設長になってしばらくして、ある30年来の利用者さんの父親が「伝えておきたいことがあるから、少し話す時間がほしい。」といって、二人きりで話したことがありました。「関根さんのやってきたことはずっと福祉だった。その延長線上にアートがあることを忘れないでほしい。祥平くんもそれは十分理解していることだと思うけど、それを伝えたくてね。今の福祉の潮流は、表層的なアートで、幹が見えずに、葉っぱだけがざわついているように見えるんだ。はじまりは福祉だったんだよ。」
言葉がでませんでした。と同時に私のなかに「福祉とはなにか。」という問いを立てることができ、そこからブレてはいけない。そう心に誓いました。
意思決定支援が叫ばれる福祉の現場。世間では合理的配慮が叫ばれています。福祉ってなんだ。全部自分一人で決めるのか。全部自分で配慮を主張するべきか。その人を取り巻く環境、社会が、思いやりをもって都度ゆるやかに変化していくべきじゃないか。
「福」も「祉」もどちらも「幸福」って意味だ。
一人でのんびり食べる飯のうまさもあれば、誰かと一緒に食べる飯のうまさもある。「今を満たすこと。」一寸先は誰にも保障できない。そんな中で今を共有する人と、その今を満たすようにお互いが持ち寄って、努力すること。それで十分じゃないか。福祉の現場でできる幸福は、「互いの今を満たすこと。」それが今思う、私の一つの解です。

どうやってくうか?を考えること

どうやってくうか?を考えること。その哲学的な問いを掲げた会社に出会ったことが私の人生を大きく豊かに変えました。「障 老 病 異」すべて他人事ではなく、自分事。
困ったときに立ち止まって一緒に考える。助け合う。諦めない。
株式会社 愉快に関わる人が、この会社を通して幸せや安心を実感し、日々を豊かに過ごせる。そんな組織を創っていきたい。愉快の代表として、そう心から思っています。
今この目の前にいる人たちの笑顔を大事にする。その先に世界の平和があると信じて毎日を大切に生きたい。どこまでいっても一人の人間として、若輩者ですが精一杯歩んでまいります。今後とも何卒よろしくお願いいたします。

株式会社 愉快 代表取締役/studio COOCA施設長 関根祥平

studio COOCA 1F GALLERYにて

Profile

1987年6月29日神奈川県藤沢市にて出生。
愛知県立芸術大学 美術学科彫刻専攻修了。在学時に中・高教員免許取得。
卒業後、神奈川県立鶴見養護学校で非常勤講師(2年間)、臨時任用教諭(1年間)として働きながらアーティストとして海外進出を目指しサンフランシスコ校と提携しているジュエリーの専門学校に夜間通いワックスモデリングの講師の資格を取得。語学留学で渡米。語学習得の合間に運転免許を取得し個人売買で車を安価で購入。マリブのジュエリー工房に出入りさせてもらいアメリカのモノづくりを体感する。ロサンゼルスに住みながらサンフランシスコのアートする福祉施設 Creativity Explored , Creative Growthなどの視察や、NY Art FairなどARTの市場を見る。NYブルックリンのクラフトフェアーでstudio COOCAの商品を試験的に販売するなど徐々に株式会社 愉快の仕事に関わるようになる。2016 年より株式会社 愉快スタジオクーカ入社。スタジオクーカ施設長を経て、2024年6月1日より株式会社 愉快 代表取締役/スタジオクーカ 施設長。

福祉への道程 ~ARTが橋渡しになり福祉の道へ。


幼少期から福祉関係の仕事に就く両親のもと、福祉は常に頭の片隅に置きながら、ずっと好きだった美術の道に進む。

補装具を付けて歩く友人を馬鹿にしたクラスの人気者に何も言えず悔やんだ小学校低学年時代。

いじめられやすいタイプの子を守るために、なぜか小学校3年生から中学校修了まで、担任の配慮でその子と同じクラスにされていたことを知った中学の卒業式。その子の母からもらった感謝の手紙。(その時初めて、自分のケアの潜在能力を意識した。)

いじめられかけた中学校1年の1学期。夏休み明けに私をいじめた当人は登校拒否になった。そこで抱いた複雑な感情。

高校受験に失敗し滑り止めで入った大学の付属高校の校則の厳しさ、学費の高さ。「校則に従えないなら退学してもらって構いません。」という教育態度への疑念の中で一念発起して早稲田大学を目指し、始めたバイトで予備校費を捻出。予備校で開いた3000語の英単語帳に、実用性のないそれを頭に叩き込むことでしか入れない大学の構造に絶望する。

改めて自分の好き、得意を振り返り、美術の道を志す。
大好きだった美術を希望大学合格の術として日々デッサンしながら磨く中で感じる挫折感。大学に1浪して多摩美と県立芸大に合格するも「美術業界のヒエラルキーの中で自分の立ち位置を探りたいんじゃない。」と感じる。
そんな時に地元のクラフト市でガラス玉を売りながら、日本を旅するアーティストに心を動かされる。同時に大学時代の派遣バイトでいった建物の解体現場で、日雇いの職人が粉塵で肺炎を患い、結膜炎で目が真っ赤になりながらも保障なく、朝から晩まで働いている肉体労働の過酷さも知る。
「からだ一つで、食っていくことは生半可じゃない。」

スタジオクーカを父が立ち上げる。仕事を手伝ってほしいと具体的に打診がある。

日本での生活に辟易している中で、アメリカやヨーロッパにあこがれている自分に気づく。世界で活躍したい。

美術大学卒業後、養護学校(現支援学校)で美術の授業を持ちながら、夜は日本の伝統工芸の流れを汲むジュエリーの専門学校に通う。日本で発展した技術を持てば、世界を渡り歩く共通言語を得られるんじゃないか?

ジュエリーの専門学校の代表からも、もう50歳になるから、最後に一人世界で活躍できる職人を育てたい。と就職を打診される。

そこで改めて自分の人生について考える。
自分が求めていたのは、伝統技術ではなく、技術を飛び越えること。

結局、語学留学という形でビザを取得して、ロサンゼルスに部屋を借り、各地を放浪する。NYの地下鉄でラジカセを肩に担ぎ、爆音でHIPHOPを流すオジサン。そばで笑いながらステップをふむ学生。日本の電車内ではありえない光景に衝撃を受けた。

自分が思い描くアーティスト像とは、「しがらみから解放されていく自由を謳歌できる表現者」のことだ。ラジカセのオジサンは私にとって表現者だった。

障害はその人を取り巻く環境によって変わる。その車内には泣き出す赤ん坊とその母親に舌打ちをする、日本の冷たい空気はなかった。一方でホームレスやドラッグ中毒者への支援が追い付かず、自己責任論の蔓延したアメリカ・ロサンゼルスの現状も知る。

アメリカを放浪する中で気づいたこと。放浪の中に自分の未来はない。
どこか一ヵ所に根差すこと。そこで踏ん張ることでしか、自分の居場所は見つからない。

サンフランシスコの福祉施設を訪れた時に見たARTの世界共通性。
アートを介して生まれる、作品や空間の類似性を肌で感じた。国境なんてない。「クーカとそっくりだ!」

ARTの源流に触れていたい。それが私のアメリカ放浪中に出した答えだった。ARTの源流は私が生きるここ(福祉施設studio COOCA)にある。ここが本場で、ここが世界だ。ARTは世界共通言語になり得るんだ。

ARTが橋渡しになり、私は福祉の道に入りました。
今の私にとってARTとは、ケアの現場で「日々の営みにその尊さ、価値を見出していくこと。」その人類の営みそのもの。

ARTという概念を用いて、人の在り方の多様性を世に問う。
DESIGNという手法で社会課題にアプローチする。
studio COOCAはこれからも「好きなこと、得意なこと」
を通して社会との接点を創出していきます。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました!

2024年6月 株式会社 愉快 代表取締役 studio COOCA施設長 関根祥平



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