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#002 再会

欠片

今回二回目の投稿となりますが、前回の記事にも書かせていただいた通り、
本記事から、私が2023年に体験した数々の大きな奇跡を書かせていただきます。

見方によっては、私たちは日々生きていられるだけでも十分に、奇跡の連続と言えますが、特に想像の範囲を超える、且つ好転的な事象に触れた時、多くの人は普段、それを奇跡と呼びます。

そういった意味では、半生を振り返ると私にとって奇跡と呼べるような体験は有り難いことに他にも沢山ありましたが、

特に2023年の体験は、私にとっては特別で重要な意味を持ち、それ以降の人生を、全く別の次元へと移行させるほどの力を持った、とても神秘的な奇跡体験となりました。

その当時の大きく深い感動と感謝の気持ちを、薄れることなくいつまでも大切にしていきたいという思いから、自分自身のための備忘録として。

そして今この記事を読んでいただいているご縁あるあなたと、その感動を一層深く分かち合えるように、奇跡体験に至る経緯も含めた回想録のような形にして、書かせていただきます。

このあとの回想録は、序盤では少しばかり、状況が暗転し続ける少年時代の物語となります。

しかし、パズルのピースひとつだけでは、何の絵か判断できなくても、それらが全て繋ぎ合わさることで全体の絵が認識できることと同じように、

それらひとつひとつの、一見、苦しく見えていた体験は、後々パズルのピースのように繋ぎ合わさり、その結果、奇跡という絵が完成することになります。

幼少期の、私にとっての苦い体験は全て重要な、奇跡の欠片だったことが明らかになっていきますので、しばらくの間、少年時代の少しばかり暗い物語に、お付き合いください。

私には、9歳のときに両親が離婚したことで生き別れとなった父がいます。

離婚後も、様々な生活の変化、展開が重なったことで、それ以前の記憶は薄れていき、

「愛知県で生まれ、9歳の頃まで過ごしていた」

という情報だけが、もはや記憶ではなく認識として残り続けましたが、私が住んでいた家や、通った幼稚園、小学校などが、愛知県のどのあたりだったのかわからないまま、あっという間に27年以上の月日が流れ、2023年の時点では、当時の思い出や、父に関連した記憶は失われていました。

転機

私の幼少期は、体は病弱で、運動が苦手で、年がら年中、風邪をひいては高熱を出し寝込んでいるような子供でした。

性格は、ひょうきんで明るい一面はあるものの、繊細で、周囲の空気感を敏感に感じとり、家族や友達、周囲の大人たちの表情、態度を常に気にしながら過ごしていた記憶があります。

繊細さと体の弱さも相まって、家族や周囲の大人からは、いつも心配の眼差しを向けられているような、脆さのある少年でした。

両親は日々忙しくしていて、ほとんどいつも一人で過ごしていましたが、そこに寂しさは無く、今もそうですが一人で過ごす時間も好きだったので、家で絵を描いたり、一人で歌ったり、TVゲームなどをして、満足して過ごしていました。

大好きな家族、友達に囲まれ、楽しい小学生時代を過ごしていた私は、小学3年生、9歳の年に、最初の転機を迎えます。

別れ

ある日、母から「買い物に行くよ」と連れられ、車に乗り込みました。

ちょうど買ってほしいおもちゃがあったため、私は喜びながら母と車に乗り込んだ記憶があります。

しかし、着いた場所は何故か駅で、電車に乗りました。

「買い物は後で行こうね」と言われ、私も特に気にならず、目的のおもちゃを買ったあとのことを考えながら、意気揚々としていました。

それなりに時間が経ち、大きな駅の中を歩いていました。

「どこに行くの?」と母に聞くと、「おばあちゃんの家に行くことになったよ」と言われ、気づけば新幹線に乗っていました。

こわばった表情の、母の横顔を見つめながら、頭の中では「?」でいっぱいになっていました。

母と途中で合流していた、少し歳の離れた姉の二人から、なんともいえない緊張感が伝わってきていました。

どれくらいの時間が過ぎたかわかりませんが、母がようやく私に話し始めました。

「転校するよ。」
「もう、おうちには帰らないよ。」
「もうお父さんとは、会えないよ。」

9歳の少年にとってはあまりにも衝撃が大きく、そのあとは、ただひたすら泣き続けていた記憶があります。

そのあと、どこに着いて誰と会って何を話したか、全く記憶がありません。

衝撃

今思うと、例えば「来月、引っ越すことになった」と事前に言われ、友達とも「もうすぐ会えなくなっちゃうね」といった会話をしながら、納得のいくまで日々を楽しみ、気持ちの整理をつけながら過ごす期間があれば、感じ方は違ったのかもしれません。

もしくは、父と母が普段から言い争いが絶えず、私自らが両親に別れることを勧めたり、私自身が父を嫌がっていて離れることを望んだり、学校に不満を感じていて転校を望んでいた上での別れであれば、感じ方は大きく違ったと思います。

しかし何の前触れもなく、それまでの幸せな日常が突然終わってしまいました。

ついさっきまでいた、自分の家に、あの部屋に、もう帰ることがない。幼稚園に入る前からいつも遊んでいた仲の良い友達たちと、今朝まで楽しく会話していた父と、別れの言葉も交わせないまま、もう会えない。

理解が全く追いつかず、後々説明を受けましたが、母がどれほど父との関係の中で苦しみに耐えてきていたとしても、私と父との間には何も起きていなかった以上、そして何より私自身は望んでいなかった以上、この別れの体験は、その後の人生全てに影響を与えるほどの衝撃を、心に与えました。

無力

その後、さらに思いがけない展開へと状況が二転三転し、両親の離婚が成立するまで約1年ほどかかり、その期間はいわゆる別居状態でした。

その1年間の別居中、最初の数ヶ月は母と姉と3人で生活し、都内の学校へ転校し通いました。

しかし、父が何度も説得を重ね、母は不本意ながらも、私と姉の子供達だけは、わずか約5ヶ月で再度転校し、父のいる家に戻り過ごしましたが、依然として両親は別居状態でした。

二度と帰れないと思っていた、自分の家に、部屋に戻れた嬉しさは計り知れないものがありましたが、母がいない寂しさもまた、とてつもなく大きいものでした。

母と離れて過ごした、離婚成立までの約7ヶ月間、いつか両親の関係が回復し、以前の平和な家庭へと戻ることを望んでいました。

しかし、幼い私には平和に見えていただけで、母にとってはあまりに苦しい生活だったためにそれは実現せず、状況は益々泥沼化し、ついに友達や父と、別れの言葉も交わせないまま、離別することになりました。

この時の衝撃もまた、大きすぎたために、”父と過ごした最後の日”が、誰とどこでどのように過ごし、何を話していたのか、おそらく人間に備わっている心の防衛本能の働きによって、27年後に起こる奇跡によって思い出すまでは、完全に記憶から消えていました。

「生まれ育った家に帰りたい。」
「転校したくない。」
「みんなで一緒に暮らしたい。」

と、どんなに抗っても母を困らせてしまうだけで、展開はどんどん進み、”自分の意思が現実を動かす力”が無い、無力さを痛感させられる体験となりました。

観念

大きな転機となった1年間を経て離婚が成立し、愛知県から離れ、小学4年生からは母と姉の三人で関東へ移り、私は1年間、祖母の元に預けられ、生活しました。

これが3回目の転校となりましたが、その後も親戚間の問題や、母の仕事上の都合も重なり、さらに関東で2度転校しました。

5年生からは母と共に生活でき、そこでようやく、少しずつ、母が人生で体験してきたことを細かく聞くことができ、母のそれまでの苦労と、深く残ってしまった心労がとても大きいことを、幼いながらにも少しずつ理解していきました。

そのため、当時の私には、

【自分の存在によって、いかに母の心が癒せるか】

を生きる上での軸とする思考体系、観念が作られていきました。

それによって、計5回の転校を繰り返す中で、度々いじめを受けたこともありましたが、私が悲しんでいたり、嘆いていると、母が責任を感じ自分を責めて苦しんでしまう、という思いから、ネガティブな感情を抑えこむようになっていきました。

封印

時折いじめから守ってくれる友達が現れることもありましたが、やっと築かれたその親友との友情も、転校の度に途絶えてしまいます。

当時は携帯電話もネットも無い時代だったため、5回の転校は、小学生の私にとっては親友との生涯の別れのように感じました。しかし、これらの悲しみも、心の奥深くに抑え込んでいきました。

この頃、父には既に新しい家庭が築かれ子供も産まれている、という話が母の友人から届きます。

”自分の意思が現実を動かす力”を持たない現実に悔しさを抱いた9歳の頃、

「いつか大きくなったら自分の力で父や友達に会いに行こう」

と思っていましたが、父の新しい家庭の話を聞き、

「いつか会いに行けたとしても、その時の父にとっては、私の顔を見ると苦い過去を思い出してしまい、困らせてしまうのではないか。」

と感じ、その虚しさも、抑え込みました。

さらに、時系列としては、父が母を何度も説得していた頃には、すでに関係の深い女性がいて、そのあとすぐに妊娠していたことになるので、その知らせはどうしても、母には印象が悪く映ってしまいました。

益々、母の前で父の話題は出しづらくなっていきました。

感情的な母を見る度に、

【いかに母の心が癒せるか】

という願いと、

【母から拒絶されては、もう居場所が無い】

という潜在的な恐怖は、日に日に大きくなっていきました。

【いかに母の心が癒せるか】

を軸に生きる私は、小学校後半の3年間で、悲観的な感情を着実に封印していきました。

負荷

中学生になり、少しずつ顔つき、体つきが変わっていく私を見て、あるとき母から、

「(父に)似てきちゃったね。」

と、とてもがっかりした表情で言われることがありました。

【いかに母の心が癒せるか】

を軸に生きてきた私は、気づけば、母に”癒し”を与えるどころか、”痛み”を思い出させる存在になってしまっていると感じていきました。

さらに、苦い過去を思い出させるだけでなく、そんな私の生活費、学費のために母が日々、体を酷使しながら仕事に向かう姿を見て、益々申し訳なさ、不甲斐なさ、そして潜在的には自分が拒絶されてしまうことを恐れ、私の観念は、

【いかに母の心が癒せるか】

ではなく、

【いかに母の心と家計に負荷をかけないか】

という形へと変わっていきました。

数十年経った今、ライフコーチとしての立場から改めて分析すると、具体的には、

①【人の気持ちを削いだり、周りの空気を悪くするような存在にならないために、ネガティブな発言、態度を取ってはいけない】

②【特に過度な感情表現や取り乱した人の発言、態度は人を深く傷つけてしまうため、理性を持って合理的に生きなければならない】

③【お金がかからない存在でいなければならない】

という観念です。

この主に三つの新たな観念は、その後の進路や、趣向、価値観など、生き様に大きく影響していきました。

固定

高校、大学生活においても、自分の望みよりも、母が納得するかどうか、つまり三つの観念に沿っているかどうかで判断、選択して進路を決めていきました。

後々、社会に出てからの様々な実体験や心理学、その他様々な学問に触れることでわかっていったことですが、高校、大学生活の7年間は、三つの観念を、よりめ、めていく期間となり、強固な固定観念を形成していきました。

詳細は省きますが、高校生時代では、たまたま近くを通りかかったことで、見知らぬ人に起きた交通事故と、それによる怪我の根本原因とされてしまい、身に覚えのないまま裁判を起こされてしまいました。

三つの観念を持った私には、この出来事は、「自分は相変わらず、存在しているだけで家族に迷惑をかけてしまっている」と映り、固定観念は益々、強化されました。

そしてさらに固定観念の働きによって、この状況を友人には相談できず、勉強、部活、恋愛など青春を謳歌している友人の気を削がないためにも、むしろ隠して表面上では、悩みなんて一つも無く明るく、何も将来のことを深く考えていないテキトウな人物像を演じながら、とにかく少しでも家計に悪影響が出ないよう、アルバイトに明け暮れました。

その後の進路を決める際にも、私としてはすぐに働いて家計に貢献したいと思っていましたが、母は進学を望んでいたため、極力、費用がかからずに進学できる特殊な大学を奇跡的に見つけて進学し、4年間はひたすらアルバイトに明け暮れました。

その後、就職氷河期と呼ばれる情勢の中、「いかに余計なコストをかけず就職し、すぐに収入を得るか」という考えで、興味、関心ではなく採用率の高い業界、業種を絞って就職活動を進めました。

結果、初めは介護系企業を選択し、内定後もすぐにアルバイトという形で配属予定の現場で約1年間働きました。

全ての判断基準、現実に起こることの解釈が全て、

「強くポジティブに生きないといけない!」
「合理的に先読みしリスク回避しないと!」
「とにかくお金がかからない選択を取る!」

となり、その選択を繰り返すことで益々、め、められ、その後の人生の基盤となる固定観念を完成させた学生時代となりました。

これらの固定観念が後々、奇跡の欠片であると気づけるようになるまで、少し時間がかかりますが、その後、この固定観念のおかけで、数えきれないほどの”不思議な出会い”を、体験し続けることになります。

自然体

介護施設に1年勤めたあと、30歳を迎える年までの約7年間は、営業マンとして働きました。

三つの観念を果たしながら生きるために、介護施設で正社員として勤めるよりも、出来高制の報酬が得られる働き方をすることで、少しでも大きい収入を目指し、家計に貢献し生きる。

そういった判断により営業職に転職することが、当時の私にできる精一杯の選択でした。

仕事柄、7年間でたくさんの人に出会い、たくさんの人に迷惑をかけ、たくさんの人に救われてきましたが、この7年間では時折、次の4つのステップを満たす、"不思議な出会い"が続きました。

STEP①
私と似たような境遇か、私よりももっと大変な苦労を経験している人が現れ、出会って間もない段階から、「誰にも相談したことないんですが、実は、、、」と言った形で、深い相談を受ける。

STEP②
そのときだけは、なぜか私は営業のことは完全に忘れていて、"自然体"といった感覚での対話が始まり、相手の心の奥深くが手に取るように理解、共感できる。

STEP③
それにより、私の固定観念とは真逆の【解決策】が自然に閃き、それを伝えることで、なぜかすぐに実践していただける。

STEP④
【解決策】を実践したら、何をやっても状況は変化せず長年悩んでいた問題が奇跡的に解決、解消された、との報告と感謝を受け、「知人の相談にも乗ってほしい」と紹介を受ける

これらのステップを経て、たくさんの方々が、

・私が持っている固定観念とは対照的な閃きが

・自然体で行う対話によってのみ生み出され

・それが相手の行動、結果へと即時反映され

・奇跡的な現象とともに望んだ未来へと転じていく

という事例を、"不思議な出会い"の数々から、7年間で数えきれないほど目撃させてもらえたのです。

これらの事例から、前回の記事に書かせていただいたとおり、人は、

【心奥深くと向き合うことで不思議な展開を経て人生を転じる】

という普遍の法則を学びました。

そして、これに関わらせていただく立場として生きる道を選び、ライフコーチとして独立し、大きな奇跡を迎えることとなった2023年までの、合わせて13年間で、ありとあらゆる奇跡の事例を目の当たりにしてきました。

そして自分自身でも、心奥深くと向き合うことで、自分の人生にも、結婚や、子供の誕生など、たくさんの奇跡に包まれ、幸せが溢れる日々を送っていました。

兆候

最初の転機から24年、2020年。
”コロナ”という言葉が、世界をあっという間に支配しました。

そしてこの言葉は、多くの人たちの人生、生き方を変え、心奥深くへと意識を向けさせるきっかけになったと私は感じています。

私自身もその一人であり、2020年を皮切りに、全く想像していなかった、望まない方向へと、生活は不測の事態の連続によって変化していきました。

経済状況、健康状態、人間関係など、人生のあらゆる分野で、

「よりによって何で今、、、さらにそんなことも、、、こんなときに限って、、、。」

と、思いもよらない、目を背けたくなるような展開が重なり、おもわしくない事態へと、人生が再び暗転し始めたのです。

このとき、私はたくさんの方の事例を目の当たりにしてきたおかげで、事態に心は翻弄されつつも、同時に俯瞰した意識で、

「目を背けたくなるようなこれらの展開は、否が応でも心の奥深くへと向き合わざるをえない状況へ向かわせている。」

と解釈しました。

つまり、それまでの13年間で見た奇跡的な数々の事例や、自らの体験のおかげで、

「心の奥深くに、まだ向き合っていない何かが残っている」

「それと向き合うことで得られる閃きによって人生が、更に大きく変わろうとしている兆候だ」

と捉えたのです。

秘策

コロナを機に起き始めた望まない現象を兆候と捉えた私は、多くの方々に伝えてきた私独自の、

【心と向き合うための13の秘策】

を、改めて自分で実践し直すことにしました。

【13の秘策】が、たくさんの人に奇跡を起こした事、そして自分にも奇跡を起こした経験から、これらの秘策によって必ず、まだ向き合えていない何かが発見できるはずだと確信していました。

【13の秘策】によって心の奥深くと向き合うことで、心には主に2つの変化が起き、1つの行動が生まれます。

心の変化とは、一般的な表現で言うところの、
【トラウマの解消】【本音の表面化】であり、それによって生まれる行動とは、【好奇心に基づいた行動】です。

言い表すことは簡単ですが、実際にそれを起こせるかどうかは、人によっては人生全体を通しての課題となるほど、とても深い、変化のプロセスです。

いったんここで整理しますが、

【13の秘策】は、心奥深くと向き合うことを目的とした手段です。

それにより、
【トラウマの解消】が起き、これによって、固定観念が消滅し、固定観念によって封印されていた【本音の表面化】が起きます。

これは【好奇心に基づいた行動】が自然に発動させるため、これがその人の自然体の状態であり、それが様々な"不思議な現象"の目撃へと繋がり、大きな奇跡となって人生が大きく転じていく。

ということになります。

【13の秘策】の具体的な内容については、いつかまた詳しく触れようと思いますが、コロナを機に再度取り組んだことにより、私はある可能性に気づきました。

それは、この時点では9歳以前の記憶が無かったため、「0〜9歳の間で形成されたトラウマが心に残っているとしたら、それについてはまだ解消できていない」という可能性です。

だからこそ、今だに固定観念は、起きる目の前の現象の解釈や、対処方法の思考、判断に無意識下で影響し、昔と似たような現実を繰り返し体験していることになります。

逆に言えば、そこにトラウマが残っていなければ、人生がものの2〜3年で、幼少期と同じく「自分の存在は、相変わらず周囲にとって負担でしかない」と感じるような状況になり得ない、とさえ感じました。

そのため、まずは小学生時代の記憶を、12歳、11歳といった順で辿り、【13の秘策】をもって心と向き合い始めました。

現場

特にこのとき、私が取った策は、【13の秘策】の一つである、【現場に赴く】です。これは、【トラウマの解消】のための重要となる効果的な最初のアプローチです。

トラウマとは、無意識下である潜在意識の中にあるため、いくつかの方法によって、認識できている顕在意識へと引き上げる、つまり思い出す必要があります。

そのうちの効果的な一手の1つが、その当時住んでいた場所に行ったり、会っていた人に会う、といった、【現場に赴く】という方法です。

10〜12歳の間で縁のあった4カ所の小学校や、当時住んでいた家は、幸い全て関東だったため、時間を作り、赴くことができました。

実際に現場に立つことで、たしかに蘇る記憶がたくさんあり、痛みの感情記憶、トラウマを、さらに他の秘策を使って、昇華していきました。

このあと詳しく触れていきますが、これだけですぐに、"不思議な現象"が起き始めます。

しかし、一番の目標である、肝心な0〜9歳の記憶は、当時の情報がない以上、【現場に赴く】ことができず、全く思い出せません。

これまでにも書いたとおり、当時の話題を母や姉に数十年間、強固な固定観念によって言い出せずに生きてきた私には、今更、住所や最寄駅の名称など聞き出す、という選択肢を取ることはできませんでした。

このままでは、もし9歳以前の【トラウマの解消】が、本当に目の前の現実を変える効果的な方法だった場合、その記憶を思い出せない以上、この緊迫した現実も解決することができない、と途方に暮れる思いでした。

アルバム

緊迫した状況は益々深刻になる中、2023年の春。
"不思議な現象"が起き始めます。

ある日、遠方に住む母を尋ねた際、突然、小学生時代の写真や卒業アルバムを一式、渡されました。

「私が持っているより、あなたが持っていた方が、いずれ子供が大きくなったときに、一緒に見ながら楽しめるのでは」とのことでした。

当時、息子は2歳、娘が0歳で、もう少し大きくなった頃に、一緒にアルバムを見ながら家族みんなで笑っている状況を想像すると、とても楽しみになり、私も喜んで受け取りましたが、何よりアルバムが残っていたことに驚きました。

なぜなら、幼い頃の記憶や、それに連想するような物と向き合うことに、固定観念により潜在的な抵抗が強かったため、社会人になった頃、過去の写真やアルバムは、「とっておいても仕方ない。どうせ見ることはない。」と、全て捨てたつもりでいたからです。

母が保管していたことは、今思えば「取っておくからね」と言われていたような気もしますが、全く意識していなかったため、アルバムが残されていた驚きと同時に、「これは今の自分に必要なんだろうな」という気持ちになり、有り難く受け取りました。

その後、日々の緊迫した状況により、アルバムには意識が向かず、すぐには目を通さなかったのですが、それから益々、"不思議な現象"は続いていきました。

アルバムを受け取ってから約3ヶ月。
7月に入り、36歳となってから数日経ったある日。
何十年ぶりかわかりませんが、父が登場する夢を見たのです。

そののおかげで父の顔を鮮明に思い出した、というほどに、妙にリアルで、不思議なでした。

そのから深夜3時頃に目が覚め、驚き、緊張、懐かしさなど、不思議な感覚の数分間を、天井を見つめながら呆然と過ごしていました。

その時ふと、母から渡されたアルバムのことを思い出しました。

「9歳まで通っていた小学校の名前がアルバムを見ればわかるから、たとえ、今その小学校が残っていなくても、今の時代ならネットで調べられる。所在地に関する情報が、少しは得られるのではないか」

と、そこでようやく閃いたのです。

なぜそれをもっと早く思いつかなかったのか不思議ですが、早速アルバムを取り出し、小学校の名前をネットで検索しました。

時代

すると、今もまだ、その小学校も、さらには幼稚園までも変わらず存在していることがわかりました。

そのおかげで始めて、私が生まれ育った地域の名前や、最寄駅など、【現地に赴く】ことを可能とする情報を、知ることができたのです。

さらに、小学校や幼稚園の位置情報を、マップのアプリを眺めていると、直観的に「道がわかる」と思いました。

時代のおかげで、ストリートビューによって、小学校の周辺をネット上で、練り歩くことができるため、

胸がドキドキ、ざわざわしながら、小学校の位置から当時住んでいた家が在ったであろう位置まで、かすかに蘇り始めた記憶を頼りに、画面を進めていきました。

昔と変わらず田舎道であり、あまり栄えている地域ではないため、細かい路地に入っていくことがストリートビューではできませんでしたが、見覚えのある公園が見えてきました。

「家の前にあった、広い公園だ。ここで、自転車に乗れるように、父と練習したんだ。ということは、、、。」

ついに、生まれ育ったを見つけました。

全身、鳥肌が立ちました。

これがいつ撮影されたものかがわからないため、今となっては、違う建物に変わっていたり、リフォームされていたりするかもしれませんが、ストリートビューには、当時のままの姿で、が映っていたのです。

細い路地沿いのため、の正面にまわったり、近寄ることはできませんでしたが、ついに当時住んでいた家の住所までもが、母から受け取ったアルバムと、父の夢を機に、わかってしまったのです。

強制力

私は、「状況が落ち着いたら、あの家を一目、見に行こう」と、すぐには【現場に赴く】という行動を始めることができませんでした。

潜在的に、人生最初で最大のトラウマを思い出すことに、抵抗していたのかもしれません。

ようやく秘策の実践が可能になったのに、距離や時間を言い訳に、緊迫した日々の、目の前の課題と向き合っていました。

しかし、心や固定観念に変化が無いまま抗っているため、当然ながら、8月に入りさらに状況が暗転する展開が起きてしまいました。

ただでさえ、経済状況、健康状態、人間関係が混沌とした状況の中で、全く別の新たな不測の事態が起き、約300万という大きな資金を、8月末までに用意しなくてはならない状況になってしまいました。

ある意味、これも"不思議な現象"でした。

すでに、コロナの影響によって緊迫した経済状況の対処に、それまでの2~3年で手元の資金はほとんど残っていないところに、新たに300万の工面をしなくてはならない。

想像もできないところからの要請とタイミングに大きく戸惑い、相変わらず固定観念の影響で、全てに一人で対処しようとしていたため、かなり心が滅入ってしまっていました。

経済状況の問題以外にも解決できていない問題が多々残っている中、あと約3週間ほどで、資金を用意しなくてはなりません。

あれこれ考えても、じっとしていても仕方がないと思い、周囲から何か良いアイデアがいただけないかと、急ぎ多くの友人知人にアポイントを取りました。

しかし、なぜか、ことごとくアポイントは直前のキャンセルが続き、資金を工面する方法の目処が立たないまま、残り1週間となってしまいました。

その最後の1週間ももちろん、キャンセルが続き、何もスケジュールが入っていないため、「万策尽きた」と、一人事務所で天井を見つめていました。

今思えば、これは、他の選択肢を塞がれることによって、たった1つの選択肢を残す、不思議な強制力だったのではと、感じています。

一択

そしてついに、天井を見つめながらふと、「あの家を見に行こう。」と思いたったのです。

落ち着いてから行くのではなく、先に【現場に赴く】ことにしようと。
それが、経済状況、その他諸々の問題を解決する方法には見えないのですが、【13の秘策】がいかに奇跡を起こすかを、13年間でたくさんの人たちが身をもって示してくれたことを、思い出したのです。

そして見事に、翌日以降、何のスケジュールも入っていないわけですから、その時の私には、愛知県に往復10時間かけて、行って帰ってくる時間だけは残されていると感じたわけです。

じっとしていても、解決の目処が立っていない以上、何してたって同じだ、という開き直った感覚で、不思議と清々しい思いで、残された一択の選択肢を取り、翌日愛知県へと向かいました。

少年

片道5時間、27年の時を経て、ついに生誕の地へと戻ってきました。

きっかけは、【現場に赴く】ことによって、忘れられたトラウマが蘇り、昇華することで人生を転じる、という目的のために秘策を再度取り組みはじめたわけですが、このときの私はそれも忘れ、ただただ興奮と困惑の中にいました。

「いつか自分の力で戻る」という少年の思いが今果たされた、という興奮と、

母が望まないことをしないと誓い27年、固定観念の中を生きてきたことにより、「母が今日ここに来ていることを知ったらきっと、また嫌な顔をするんだろうな」と、なんだか悪いことをしてしまっているような感覚に困惑していました。

しかし、現場に身を置いた効果は絶大で、小学校、幼稚園、家の前の公園へと、力強く足が進んでいきました。

校庭や、遊具などを見ると、その周りを当時の少年の姿をした自分が、走り回って遊んでいる姿が、見えたような気がしました。

奇跡

少し気持ちが落ち着いてきたところで、いよいよ、生まれ育った家に向かい始めました。

向かう途中なぜか、

「万が一、父にバッタリと、出くわしてしまったら、、、。」

と、さすがにあり得ないような考えが浮かびました。

そもそも、父と会うことを目的に来たわけでもなく、何より、

父に新たな家庭ができた話を聞き、「いつか会えたとしても、きっと苦い過去を思い出させ、困らせてしまうだろう」と思ったときのことを思い出し、

「さすがに、そもそも起こり得ないし、バッタリ出くわすようなことだけは、避けないと。」と考えていました。

そのときに、「そういえば、父と最後に過ごした日って、どんな感じだったかな」と、記憶が全くないことを、改めて自覚しました。

家に近づくにつれて、「時間はたくさんあるから、少し遠いところから家を眺めて、住人が出てくるところを待ってみようかな。」という気になりました。

さらに、どんどん考えが浮かんできました。

「ひとまず、少し離れたところから、せっかくだし30分くらいは、家を見て懐かしんでみよう。」

「それでもし、全く知らない若い男性が出てきたら、それは自分の弟の可能性がある。」

「全く知らない、目上の男性が出てきたら、もう別の住人の家ってことになるか。」

「その場合、父は引っ越して違うところに住んでいるってことだから、そうなるともう、一生会えないんだろうな。」

「でも、もし父が出てきたら、、、。」

「今、どんな姿なんだろう。一目、顔だけでも見てみたいな。」

「元気そうな顔だけでも見れて、帰れたらいいな。」

「もしバッタリ、家じゃないところから急に現れて、近い距離で会ったらどうしよう。」

「顔を見て、まさかの気づかれて、今更なにしに来たんだ!何が目的なんだ!とか、怒らせてしまったらどうしよう。それか、まさかの大歓迎だったら。いずれにしても、大きく分けたらその2パターンか。」

「こっちは来るつもりで来てるからいいけど、父はいつもの日常なわけで、急に来られたら、拒絶にしろ歓迎にしろ、どちらにしても相当、驚かせてしまうよな。」

色々な考えが溢れながら、ついに家が見えてきました。

「車が停めてある。住人が、今は家にいることは確かだ。ああ、、、懐かしい。家の周りも、あまり変わってないな。27年ぶりか、、、。」

残り10メートルほどに近づいた時、

家の2階のすべての窓が全開になっていました。

「換気してるんだろうな。」

中から、何かが光ったように見えました。

「あの部屋はたしか、、、。」

「あの光った位置は、大きな仏壇があったところだ。」

「あの位置に大きな仏壇が見えたら、さすがに新しい住人が同じサイズの仏壇を同じ位置に置くことはないだろうから、まだ父が住んでいる証拠みたいなものだよな。」

「もう少し近づいたら、仏壇か、それ以外かが、見えそうだな。」

どんどん近づき、残り2〜3メートルほどになったとき、男性が窓から思いっきり、顔を出しました。

はっきりと、父だとわかりました。

まさか、よりによって、この距離になったこのタイミングで、その位置の窓から顔を出すとは、思いもしませんでした。

数秒ずれたら、そのまま一生父の顔を見れずに帰っている可能性もあったと思うと、いまだに不思議でなりません。

私が立っている位置が、家を尋ねて来ているように父には映る位置だったため、不思議そうに私を見ていました。

まさに心臓が止まる思いでしたが、気づくと私は父に声をかけていました。

「すみません。あの、、、わかりますか?」

27年経っているため、わかるはずもなく、急な問いかけに父は困惑してしまいました。

すぐに、名前を伝えました。

一瞬、父の表情は固まり、

「、、、え!?」

と、心の底から驚いていましたが、意外なことに、そしてありがたいことに、

「入り!入り!今そっち行って開けるから!」と、

まさかまさかの、大歓迎でした。

父は、興奮した様子で、何度も私の名前を呼びながら、

「そうかそうか。いや〜、立派になったなぁ。」

と迎え入れてくれました。

大柄に見えていた父は、私よりも小さく、髪は全部、真っ白でした。

それから、本当にありがたいことに、奥様も温かく迎えてくださり、ご配慮いただき、父と二人で2〜3時間ほど、夕飯を食べながら会話する時間を作っていただきました。

そのとき、父からは、一番最後に過ごした日の話もされましたが、思いがけない展開の興奮も相待って、「今、何が起きてるんだろう、、、。」と、不思議な気持ちで過ごしました。

お互いいつまでも実感が湧かないまま、27年の時を経て、また会えた奇跡に感謝を伝え合いました。

連絡先を交換することができ、また会う約束をして、その場を後にしました。

記憶

そのまますぐに帰ろうとしましたが、興奮が止まず、気持ちを整理したくなり、急遽近くのビジネスホテルに泊まることにしました。

翌朝、ほとんど眠れず、まだ実感が湧かずフワフワした感覚のまま、車に乗り込み、ゆっくりと帰路に向かいました。

運転し始めてから20分ほど経った時、一人静かな車内で、昨日の父との会話を思い返していました。その時、ついに脳内でも"不思議な現象"が起きます。

完全に記憶から消えていた、父と一番最後に過ごした日、誰がいて、どんな会話をしていた、という記憶が、鮮明に、全て思い出したのです。

9歳当時の私はその日、目も耳も塞いでいたくなるほどの光景だったことを思い出しました。

「だから、この記憶が消えていたんだ。9歳の少年には、耐えられなかったんだな。」

と納得し、さらにその最後の日、その場に母、父、姉、祖母がいたこと。
会話内容や、それぞれの表情の記憶までもが鮮明に蘇ったのです。

それぞれ全員の気持ちが、親になった36歳の、今の自分だからこそ受け止めることができ、帰路の5時間、ずっと涙が止まりませんでした。

【現場に赴く】ことで、さらに奇跡的に父と会話できたことで、痛みの感情記憶は蘇り、27年分の涙を流したことで、ついに私は、最初で最大のトラウマを解消し、昇華したのです。

看板

これまでの、
幼少期の転機や痛み感情記憶、
強化していった数々の固定観念や、
それによる様々な選択と解釈、
それを一時的に忘れさせる対話の体験、
多くの人が見せてくれた奇跡の事例、
ここまでの27年間の全ての体験と、
コロナを機に起きた数々の緊迫した状況、
母のアルバムと父の夢から始まった展開、
8月の不測の事態と同時に選択肢が一択となる流れ、
私が小学校から見て回った順番や時間配分と、
それにより重なった父が窓から顔を出すタイミング、

これら全てが、欠片として組み合わさり、

父との再会という奇跡が完成され、

心に中で【トラウマの解消】【本音の表面化】が起き、これにより、後の【好奇心に基づいた行動】を起こし、

依然として続いていた、様々な不測の事態の、思いがけない形での解決へと向かい始めていきました。

この後も、日々、数々の小さな奇跡体験が続き、9日後の8月30日に、外出先からの帰りの駅で、ある看板を目にします。

それが、さらに17日後の9月16日に起こる、2つ目の大きな奇跡へと繋がっていくこととなります。

救世主

ここまでが、前回の記事でお伝えした、私が体験した、数十年ぶりの親族と偶然再会した奇跡の回想録です。

13年間で出会った、数々の奇跡を目撃させてくれた方々は、

「生きることを諦めようと思うほど悩んでいた問題を、解決へと導いてくれてありがとう」と、当時から私を救世主のように扱ってくれて、今も応援し続けてくれていますが、

私が再会の奇跡を体験したことで、その奇跡は彼らの事例という欠片無しでは完成しなかったため、私にとっては彼ら全員が救世主であると、言い表せられないほどに深く感謝しています。

感謝

ここまで読んでいただいた方に深く感謝いたします。

当時の気持ち、状況を強引に言語化し、勢いのままに書きましたので、読みづらい点もあったかと思いますが、楽しんでいただけた方には、次回の奇跡の備忘録も、楽しみに待っていていただければ幸いです。

私が体験した奇跡の、今回の備忘録、回想録が、ここまで読み進めていただいたあなたにとっての、今後訪れる奇跡の重要な欠片として、お役に立てることを願っております。

ありがとうございました。


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