見出し画像

月曜マガジン 肱川街道写真紀行

時代の勲章
 かつての時代には今日とは違った繁栄があった古い町並み。ゆっくり歩けば古の賑わいが脳裏を過るような錯覚にも陥る。泣き笑いの人生があり、商売繁盛に仲間達と祝い酒を酌み交わす日常が賑わいがあったことだろう。

意外に観光客が立ち止まって写メする場所

 戦国時代の戦乱状態から脱却し、外様ではあったが加藤家を中心とした安定の藩政時代を迎えることとなった江戸時代。6万石の大洲藩にあって支藩で新谷藩の在郷町だったのが現在の内子町だ。
 いつの時代にも中心となる人物がいるが、伝統的建造物群の指定を受けたこの町にも反骨の公務員と言われた岡田文淑氏の存在があった。町並みの修景整備を行い「保存」をすることで観光客を集めるという戦略には賛否両論あっただろう。だが、様々な紆余曲折を経て「観光地内子」のブランド化にこぎ着けたのだからすごいことだ。
 私が、大洲市の観光街づくりに片足を突っ込み抜けなくなってしまったのは、2002年の大洲まちの駅あさもやの創業開始からだった。ちょうどその頃は、「道後温泉と内子護国町並み散策」というツアー商品を造成したら売れないはずはないという時代で、大手旅行会社を始めとして全国各地から大型観光バスで内子を訪れていた時期だった。

私の子ども時代の思い出の店

 城下町大洲が多くの観光客で賑わうことを地域として求められた。新旧入り乱れた地域人の会合などはまとまるはずもなく、「若い者に何ができる」とあからさまに言われた。時代は「IT」化へと日進月歩の社会情勢などは気にするべくもなく「何をやっても金がかかるだけ無駄じゃ」というような地域の状況の中で「さてどうする?いっそとっとと止めるか、それとも玉砕覚悟で突撃するか」・・・私の選択は迷わず突撃。理由は「一度関わったことは最後までやり遂げること。そうでなければ最初からするな」という「親父の教え」だった。

私のお気に入りの内子

 主な産業のない大洲市が、経済的な繁栄の実現に向けて少しでも前進していくためには「観光地としての城下町大洲」を売り出していくしかなかった。そのために「大洲城」、「臥龍山荘」、「うかい」の3本柱を徹底的に売り出していく、その手立てが写真撮影とそれを情報素材としてSNSを活用しての情報発信だった。
 いろんなご意見があったことは承知しているが、要するに「お客様に来ていただいてなんぼ」なのだ。一日1,000円でも良いからコンスタントに町中へお金が流れる仕組みを作る。つまり「街づくり組織」は「町中へ経済効果を吐き出すポンプの役割を担う」ということだ。そのために取り組んだ「観光案内窓口を一本化する」、「観光案内人を養成する」、「社員も案内人という意識を持つ」という3本仕立てが功を奏し、多くの旅行会社との契約も成立して集客交流基盤の整備はできた。その根底にあったのが愛媛県を始めとして業界や関係機関との人間関係だった。

観光地としての地域の意識が大切

 退任後3年を経て今年の4月からは4年目。今さら自慢話などしても何の役にも立たないことなど分かっているが・・・形格好を整える街づくりも方法の一つ。しかし、そのことで「時代の勲章を汚すことのないように」していただきたいと切に願う。
 内子町の町並みでカメラを向けていると、町の人たちはシャッターを切り終えるまでじっと待っている。そして通り過ぎる際に「ありがとうございます」と笑顔で声をかけてくれる。観光地としてこの差は大きい。内子町があったからこそ私も仕事ができた。わずか20年ほどの間で、今日の内子町は約半世紀近くの時間を要していることを考えると、城下町大洲の道のりはまだまだ長い。そこには新しいリーダーの登場も期待されるところだが、今の私は、内子町の存在に感謝しながら写真撮影でお役に立てていることを誇りに思っている。

山内大輔(内子晴れ)

 先日、久しぶりに出会った山内大輔氏。元々地元出身でないからこそ見えていることがある。それは、松山市生まれで長州の血筋を引いている私と同じプロフィール。この柔らかい表情に秘めたる内子町への思いを何とかカタチにしていただけるよう頑張っていただきたい。

2022y.03.14.
街づくり写真家 河野達郎

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?