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金曜マガジン

1.臥龍山荘と城甲家
No.001 臥龍山荘の由来
 臥龍山荘の魅力、特に臥龍院の日本建築としての素晴らしさは群を抜いています。写真をご覧いただき、最後の由来をご一読ください。

清吹の間
霞月の間
壱是の間
蹲踞の美学

 予州大洲藩三代藩主加藤泰恒が蓬莱山が龍の臥す姿に似ていることから”臥龍”と命名したとされる。清流肱川河畔で最も優れたこの景勝地に初めて入ったのは、1595年に豊臣秀吉の命で大洲を治めた藤堂高虎の重臣、渡辺勘兵衛だった。その後、この地をこよなく愛じた泰恒公は吉野の桜、龍田の楓を移植し、庭に一層の風致を加えた。幕末までは歴代藩主の遊賞地だったが、明治維新後は補修されることもなく自然荒廃していた。

 現在の山荘は、幕末の大洲藩御用商人・大坂屋與一衛(現・城甲家)の長女ワキ(1858年生)の婿養子となっだ貿易商•河内寅次郎(1853年・現 大洲市新谷生、1887年頃神戸で喜多組創設)が余生を故郷で過ごしたいという思いから財を投じ、地元大洲の大工中野虎雄を棟梁に、その思いを千家十職らに託して築いたとされる。1897年に庭園整備を開始、1900年9月から不老庵を、1903年から臥龍院の建築を開始し、1907年に完成した。しかし寅次郎が完成した臥龍院に住むことはなく、1909年に神戸でその生涯を終える。ワキの実妹タメ1864年生)の婿養子・乙吉(現宇和島市出身)の孫にあたる当主・故城甲昭三氏は、建築にば当時神戸にいた寅次郎に代わって乙吉が現場の采配をふるっていたと記憶を明らかにしている。このことは、中野虎雄が建築のことの詳細などを寅次郎へ手紙にしたためて送った当時の現物の存在が正式に確認されていることからも裏付けされている。
 中秋の名月には不老庵の竹網代張り天井に、臥龍淵の水面に反射する月明かりが射し込むという、他に類を見ない匠の技を施した臥龍山荘は、2011年5月にミシュラン・グリーンガイド・ ジャポンに 「一つ星」として紹介された。その後、臥龍院、文庫、不老庵が国の重要文化財に指定され、令和3年10月11日には臥龍山荘と蓬莱山(河川を含む)約6,700平方メートルが「臥龍山荘庭園」として、愛媛県内では13件目で大洲市では初めて国の名勝に指定された。

令和5年1月19日
文責 街づくり写真家 河野達郎


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