あの時ボクが観た景色⑤『あの年の夏』
町の名前を覚えてもらうために色々考えを巡らせた時代。
2010年からの10年間は、2002年に開業した大洲まちの駅あさもやを起点として「観光まちづくり」へシフトしていくために色んな手立てを講じてはやり直すという試行錯誤の成果が、少し現れ始めてきた時期だった。
2004年に開催された「えひめ町並み博2004」では、へこむと言われていた大洲市でのイベント集客が終わってみればトップだったことが良い弾みにもなった。そこで考えてたいたのが「大洲」が読めないし漢字で書けないし思いつかないという状況がかなり影響していることだった。
メインの観光コンテンツであり肱川の夏の風物詩としても人気の鵜飼いを「大洲のうかい」、「おおずの鵜飼い」、「おおずのうかい」、「肱川鵜飼い」、「ひじかわうかい」などに併せて「城下町大洲」でいくか「城下町おおず」でいくかをかなり議論していろいろ試していた。結果は「大洲のうかい」、「ひじかわ遊覧」、「城下町大洲」等の表現で情報発信を進めることになった。
同時に情報発信素材として景色を撮影しておくことにも重点を置き、日々の業務の中で撮れる場面は徹底して撮影しSNSは毎日更新を心がけた。地域の情報発信を第三者に委託業務を組んでお願いすることを100%否定はしないが、「温もりの有る情報」を出さなければ「温もりのある成果」は得られない。そのための重要素材が私が撮影した写真だった。
地域情報発信には「柱」が要る。それも崩れにくい3本柱が良い。大洲の場合は藩政時代から幕末における維新成就に向けた素晴らしい歴史と肱川という舞台がある。全国的に見ても他に例はないポテンシャルを有したこの肱川流域の景色といとなみには、今でも私は自信を持っている。
その3本柱とは、大洲城(歴史)と臥龍山荘(自然との共生)とうかい(肱川夏の風物詩)だと考えた。併せて肱川あらしを始めとした大洲盆地という地形と肱川が絡んで巻き起こる自然現象と人々の暮らしが「演目」になるのだ。
「大洲のうかい」は、当時その演目の中でも重要な位置づけと考えていた。いわゆる「伝統文化」を継承し次世代へしっかりと受け継いで行くためには、その当事者のみならず私のような情報発信していく側の動きも絡んでいかなければことは成し得ない。伝統文化でブレイク(=次世代への継承)するためにはこうした考え方で複合的にプロデュースしていかなければいずれ間違いなく事絶える。これは人口減少に苦しむ地域にとっても大きなマイナスになる。
これらの状況を鑑みながら関わり続けた「大洲のうかい」だが、私にはうかいを自らの動きで示し教えてくれる方がいた。名鵜匠山中年治氏がその人だ。若い頃、写真④の鵜舟の真ん中付近にある籠の前に身を潜め「そこに座って動かずに写真撮るなら乗せてやる」といってくれたのは2009年9月のことだった。
挨拶と必要なこと以外はほとんどしゃべらない難しい鵜匠さんだったが、その頃からの鵜飼いは乗合船の集客が進み始める傾向にあり、シーズン中にはほとんど毎晩のように乗合船の案内人として乗船し写真撮影をしていたため、山中鵜匠当番の時には「ここで写真を撮れ」と言わんばかりに私を観て微妙にサインを出してくれるという機会が増えた。
写真④はそんな状況が毎年のように体現できるようになり、やっと表に出せるレベルになった最初の写真だ。鵜飼いは暗闇の河面で鵜舟の篝火と4灯の電気で河面を照らし5羽の鵜たちの鵜綱を鵜匠が手繰るのだ。人によって撮影方法は違うが、私の場合は「鵜飼いの臨場感」を大切にしているのでフラッシュなどは一切使用しない。鵜舟と併走する屋形船に乗っての撮影が多いため、暗い中で全てが動いている状況での撮影は、元々がヘタクソでセンスもないためなかなか上達せず苦労した。まともに撮れるようになるまでに8シーズンを要した。
名鵜匠山中年治氏。2018年の大水害をきっかけに47年という全国鵜匠の中では最も長きに渡って務められていたが、惜しまれながら勇退された。期せずして私も翌2019年3月31日を以て退任したのは何かのご縁があったのだろう。既に八十歳を超えておられるが、今もお元気でお過ごしになられているとお聞きしている。
2024年8月23日
街づくり写真家 河野達郎
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