猫が家出した時の話
遡ること七月のとある深夜、暑くて開け放していた玄関ドアの隙間から、するりと音もなく家を出て行ってしまった我が家の猫。
朝になれども帰宅せず、妻と二人で炎天下の中近所を探し回るも、姿見えず。
夕方、夜半、深夜、と探し歩くも声も聴こえず。
好物の鰹節やチャオチュールを手に手に、名前を小声で呼びつつ探索の徘徊。
次の日の朝も、そして昼も夜も、姿見えず。
妻は落ち込み憔悴するばかり。
私も仕事手につかぬまま体調も悪くなりただ机の前で一行しか書かれていないパソコンを前に猫のことを思う。
眠って見る夢も猫が帰ってくるものばかりである。そのくせ、目が覚めた時には猫は帰っておらぬものだから心底ガッカリする。
夜、私はある可能性に思い至る。
私と妻の住むマンションの一階には、いつも玄関のドアを少しだけ開けている家がある。
そしてそこの住人の姿を、ここ数日見ておらぬ。
というのも、猫がいなくなって、近所を散策して初めて気づいたのだが、その一階の家は、隙間を開けたドアだけでなく、ベランダ側のカーテンも窓も全て開け放しているのだが、ここ二日、電気がついているのを見たことがないのだ。
おまけにベランダ側からその薄暗い室内を少しだけ覗いて見ても、人の気配がしない。
やはり、この家の住人は、中にいない。
ということは、この家の中に猫が入り込んでいる可能性はとても高い。
さて、そう思い至ったことにより、台風による風雨に晒されているのではないか、他の猫にいじめられているのではないか、と言った漠然とした不安は、若干薄まった。
12年間家の中で生きてきた猫が、突然外の世界でサバイバルしているのと、同じマンションの一階の、玄関ドアに空いた隙間から中に入り込むのとでは、後者の方が圧倒的に想像がし易い。
恐らく八割、うちの猫は、一階の、ここ数日ドアを開けたまま外出している他所様の部屋に転がり込んでいるのだ。
で、あれば。
で、あればどうするべきか。
妻と相談する。
その時は夜の八時だったが、部屋の中には誰もいないと思われるが、一度インターホンを鳴らし、
「うちの猫が紛れ込んでいると思うのですが、探させてもらえませんか」と素直にお願いするのが良い、とあっさり決まり、一階のインターホンを鳴らす。
だが、誰も出ない。
当たり前だが、猫も出てこない。
さて、どうしたものか。
とりあえず、その部屋のベランダ側へ回り、チャオチュールを、ベランダのすぐ外に抽出しておくことにした。
猫が匂いにつられて出てきて舐めて、我が家のことを思い出すかもしれない、という淡い希望を込めて。
我が家に戻り、さてどうしたものか、と思案。
夜中にもう一度訪ね、やはり帰宅していないようであれば、いっそドアを開けて家宅不法侵入し、猫を抱えて退却るもやむなし、とまで考えつくが。
それは、一階の家に、猫が確実にいる、とわかっている時に、どうしてもその方法しかなくなってしかも時間がない時(猫が死にそうとか)にやるもので、今それをやるのは時期尚早。落ち着くべき。という意見でまとまる。
そもそも、この台風近づく中、窓もドアも開け放したまま数日帰宅していないというのはどういう状況なのだろう。
ここで補足すると、その一階の住人のことは実は知っている。
近所のコンビニで、姿を見かけたことがあるのだ。
中年の男性で、一人暮らし(うちのマンションの中で、唯一その部屋だけがワンルームなのだ)で、タバコをカートンで購入していた。
あまり健康そうには見えないな、というのが第一印象であった。
人のことは言えないのだが。
で、あるからして。
緊急の外出もやむを得ない状況に陥り、それでドアも窓も開け放したまま外出しているのではないか、と考えた。
つまり、入院や、療養である、といった理由である。
彼は体調を崩してしまい、家を空けざるをえなくなってしまったのだ、と。
それであれば、ここ数日の不用心な外出もそれなりに納得できる。
だが、私にはそれよりももっと厭な想像が、あの部屋のドアの隙間から漏れ出てくるのを抑えられなかった。
つまり、住民の死である。
彼は、体調を崩した結果、一人で亡骸となって動けずにいるのではないか?
そして猫は、その死体の上で寝ているのではないか?
といったことは簡単に思いついたが、すぐさまその可能性は否定される。
もしそうであったなら、もっと前から玄関やベランダから強烈な腐臭がマンション全体を襲っているはずだ。
だからそれは違う。
だが、連れ去られたとか、何か犯罪に巻き込まれた可能性もあるのではないか?
無理やり何者かの車に押し込められたり……。
おばけだ! おばけに変なことをされて頭がおかしくなって何処かへ行っちゃったのかも?
普段の私ならおばけの存在など、幽霊と同じ位信じていないのだが、猫が不在という心のダメージが、そんなことを考えさせてしまった。
なので。
おばけがいるかもしれない一階の部屋に猫を取り返しに不法侵入するなんて、怪談もしくはホラー映画なら死亡フラグじゃん!
という思いを消し去ることができず、少なくとも、今夜のうちにもう一度あの部屋を訪ねるのはよそう、という結論に達した。
明日の朝明るくなってからもう一度訪ねてみよう、と。
そして不法侵入はやっぱり厭なので、大家さんに立ち会ってもらおう、と。
そこまで次の行動を決めたところで、妻が思いついた。
「置き手紙をしよう」
つまり、あなたの家の玄関の隙間からうちの猫が入り込んでいると思うのですが、もしいたら連絡ください、という内容の手紙を書き、ドアの内側に貼っておこう、というのだ。
もしここ数日帰っていない住人が帰宅すれば、手紙に気づき、少なくとも猫が本当に家の中にいた場合、邪険に怪我をさせるように追い出したりということはしないのではないか、という予防のためでもあった。
私が夜中に手紙を貼り、それでも連絡はないだろうし、明日は大家とともに猫探しだな、と眠りにつき。
翌朝、6:50分妻がゴミ出しに玄関を出て。
数秒後。
猫を抱えて大慌てで帰宅したのであった。
話を妻に聞くと、一階の階段の隅で小さく丸まっていた、とのこと。
二人で一階の様子を確認しに行くと、いつも開け放されていた、例の部屋のドアに、チェーンがかけられている!!!
予想でしかない。
予想でしかないが、やはり、うちの猫はあの家に数日お世話になっていたのだ。
そして住人が帰宅し(ひょっとしたら今までも帰宅していたのだが、隅で丸くなっている猫に気付いていなかったのかも知れない)、手紙に気づき、部屋の中を探索し猫を発見し、しかし、電話かけてやりとりするのは避けたかったので、とりあえず家の中から出し、チェーンをかけて二度と入れなくしたのではないか?
予想でしかないのだが。
ともあれ、猫は無事に帰宅しました。
ああ、不法侵入しなくて良かった!
あと、一階の人。
死んでるとかヤクザに攫われたとかおばけに脳をやられたとか、失礼な想像してすみませんでした!
追記。
そして一階の部屋のベランダの外に抽出したチャオチュール、近所の猫が一心不乱に舐めとっているのを、三階の我が家のベランダから目撃。
近所の猫にしてみれば奇跡の味だったのだろう。
食べ終えると少ししてから、ぴょん、と、その家のベランダの中へ入って行った。
一階の住人にしてみれば、「我が家がいつの間にか猫に大人気になってる」と不安になってはしないだろうか。
本当すみません。
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