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「ジャーナリストのありかた」と「人としてのありかた」


YouTubeを観て、久しぶりに胸が熱くなった。

森友問題の新事実をスクープした相澤冬樹記者(大阪日日新聞)のトークライブ(3月20日)である。

『森友スクープ 赤木手記を掘り下げる』
https://www.youtube.com/watch?v=_5xb5H8GHLg

スクリーンショット 2020-03-23 08.58.47

わずか1時間のトークであったが、私の心の中に、いろいろな感情が沸き起こった。

驚き
興奮
感動
怒り
笑い
悲しみ

私が一番印象に残ったのは、今回のスクープが、週刊文春の記事になるまでの経緯である。

その経緯とは・・・

NHK記者として、森友問題を重点的に取材していた相澤冬樹氏は、ある日突然、人事異動により記者からはずされる。そのため相澤氏は2018年8月にNHKを退職し、大阪日日新聞へ移る。このことは、不当な人事として、いくつかメディアで取り上げられることとなった。

赤木夫人は、メディア報道で相澤氏のことを知る。夫人は、同氏のNHKでの立場が、亡くなった夫の境遇と似ていると感じていた。そしてみずから、相澤氏へ会いたいと連絡を入れた。

2018年11月27日、大阪梅田の喫茶店で、初めて二人は面会をする。その場で赤木さんの手記(週刊文春に掲載されたもの)が夫人から相澤氏へ開示された。

その手記には国会で明らかにされていないことが細かく書かれてあり、そのすさまじい内容に相澤氏は、思わず喫茶店で大声をあげてしまう。しかし、夫人から相澤氏へは、「手記のことは絶対に書かないでください。書いたら私は死にます」と告げられた。

手記の存在とその内容を知ってしまった相澤氏は、ジャーナリストとして、これは世の中に出さなければならない、と感じた。と同時に、夫人の気持ちが変わるまでは、出してはならないと思った。だからこそ、相澤氏のほうから、夫人を説得することは一度もなかった

しかしながら、夫人の気持ちはなかなか変わらなかった。夫人にとっては、夫が勤務していた近畿財務局は、夫の知り合いが多く在籍しているため親近感があった。その反面、とても怖い存在でもあったのである。

いろいろな感情に揺れ動きながら、ついに夫人は裁判を起こす決断をする。それと同時に、記事を書いてほしいと相澤氏へ依頼をしたのである。

つまり、週刊文春で記事になる1年4ヶ月も前に、相澤氏は手記の存在とその内容を知っていたのである。私はこの事実に驚いた。

その間、相澤氏の気持ちはどのようなものだったのか? ジャーナリストとして真実を世の中へ伝えるという使命感と、それができない苦しさに挟まれていたことだろう。

だが、相澤氏には確固たる信念があったのだ。それは同氏のこの言葉に凝縮されている。

「今までの取材経験で、僕はいっぱい失敗をしている。 焦って、書かせてくださいっていうのは、結局は自分の都合なんですよ。相手の気持ちとか相手の都合じゃないんだよね。だからここは、自分の都合を抑えて、相手の都合で相手が書いてほしいって思ってくれるようになるまで、しかも私に書いてほしいって思ってくれるようになるまでね・・・よっぽど信用してもらえないと託してもらえないから、そういうふうになるまで待つ」

この言葉は、「ジャーナリストとしてありかた」を、もしかすると「人としてのありかた」をも示しているように思えてならない。

私は思わず、学生時代に読んだ『フォト・ジャーナリスト?- 撮れなかった一枚の写真』(吉田ルイ子著 岩波ブックレット)の一節を思い出した。今から30年以上前に読んだものだが、当時とても感銘を受け、何度も読み返したことを覚えている。

相澤記者の信条と合い通じるものがあり、ここにそれを引用したい。

撮れなかった1枚の写真

 1974年12月、私は、ハノイからサイゴン(現ホーチーミン市)まで、ベトナムを縦断して走る国道1号線に立っていた。
 戦火はすでにサイゴン郊外まで拡がり、国道にも、周囲の水田の小路にも、なべ、かま、やかん等を手に、子どもを背中と両脇にかかえながら、北部から避難してくる人びとがあふれていた。
 12月といっても、ここ南の国の冬は暑い。あまり汗をかかない私だが、首のまわりとカメラを握る掌は、じっとり汗ばんでいる。逃げまわるベトナムの人びとの衣服も、汗と泥と血でべっとり濡れている。
 お盆のようにおおきな紅い夕陽が、メコン川の向こうに沈もうとしていた。私は人びとの群れの中に、一組の母と子の姿をみつけた。大きな木の下に、片ひざをたててしゃがみこんだ母親のひざの上に、すやすや眠る赤ん坊、竹の笠帽を枕に、母親のひざ元でうつ伏せになっている子ども、荷物は竹かごひとつとヤカンひとつ、母親の乱れた髪、やせこけた頬、思いつめた表情と、平和そのものの表情で眠っている赤ちゃんと子どもの対比が、夕陽の逆光に照らし出され、真っ赤な空に浮き出されたシルエットとなって、戦火の喧噪の中に、ドガの描き出す祈りにも似た、しずかな安らぎを感じた私は、“絵になる!”という映像人間特有の直観で、シャッターに手をかけた。
 と、その瞬間、母親は赤ん坊の顔を手でおおい、もう一方の手をうつ伏せの子どもの顔におき、自分もレンズから顔をそむけた。200ミリ望遠レンズをつけた私のカメラのファインダーの中には、手でおおわれた指の間に、おできだらけの子供の頭と、赤ん坊の柔らかい肌にくっきりのこされた傷のあと、ひきつった母親の首筋があった。
 シャッターの上にのせた私の指は、とうとうそのままそこに膠着してしまった。シャッターを押すことができなかった。冷や汗が首筋から胸元へどっと流れた。
 撮りたかったのに撮れなかった、この1枚の写真について、私は、いまだから白状するが、日本へ帰るまでの数ヶ月、プロのフォト・ジャーナリストとしての呵責に悩まされた。きっと、ピューリッツアー賞がもらえるほどの傑作だったにちがいない。その瞬間をのがした私は、プロではない。写真をはじめて未だ数年しか経っていなかった私だったが、ああやっぱり私はプロにはなれない?と自分を責めた。
 この話を日本にかえってから、プロ写真仲間にすると、ある人は、「俺なら、手でかくしたその瞬間を撮すナ」といい、ある人は、「近づいてかくした手をとってもらうようたのむナ」とも言った。

 その後、私は考えた。というより、感じた。あの写真は撮らなくてよかったのだ、あの状況を見た、ことで充分だった。否、見せられたことこそ重要なことだったのだ、と感じた。そして、いまでもそう信じている。
 レンズから顔をそらした母親のひきつった首筋は、「どうか、写真を撮らないでください。おできだらけの子ども、傷だらけの赤ん坊、私たちは、戦争から逃げることに疲れきっているのです。そっとしておいてください」という必死の抵抗を表現していたのだ。その瞬間の反応を無視してまで、いわゆる絵になる傑作を撮って何になろう。まして、たとえ賞をもらったところで、私は一生いやな気持がのこったにちがいない。
 写真は被写体の協力、そして、撮る側と撮られる側のコミュニケーション、しかもポジティブなバイブレーションとコミュニケーションが無くては撮れない、撮るべきではない。これを、私は写真の原点にしたい。被写体への思いやりとやさしさ、それは自分自身を大切にすることでもあると思う。
 たしかに、プロとしてのきびしさに限界があるといわれるかもしれない。私はそれでもいい。プロのフォト・ジャーナリストである前に、私はひとりのふつうの人間でありたい。

引用:『フォトジャーナリストとは? – 撮れなかった一枚の写真』吉田ルイ子著


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