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私のおばあちゃんの言語感覚

私が中学生の時の話です。
日曜日の朝、自転車に乗り、友達2人と学校のグラウンドへ向かっていました。野球部の朝練です。

踏切で、列車が通り過ぎるのを待っていたときです。
隣で待つ車の中から外国人(白人男性)に声を掛けられました。

「ミナサン、ドコヘイキマスカ〜?」

陽気な外国人に、私はビックリしました。
何しろ、私の田舎(新潟県中条町)では、まず外国人に出会うことは、ほとんどありません。それほどの田舎です。

友人のA君は、顔を赤らめ、モジモジしています。
B君は私に言います。「オマエが答えろよ」
私は、あせりました。

「アー、アー・・・アイ・・・アイム・・・」

その時、踏切の遮断機が開き、車は走り出しました。
白人男性は、私たちにニッコリと微笑み、その場を立ち去りました。

私は何も話せなかった自分を情けなく思いました。

I’m going to school.
または、
I’m going to school to play baseball.
こんな簡単な英語さえ出てこなかった自分が恥ずかしかったのです。

もしくは単に
School!
でよかったはずです。

実は後ろから、私のおばあちゃんが、この一部始終を見ていました。
そして、私たちにこう言ったのです。

「おめさんがだ、にっぽん語きいでらんだすけ、にっぽん語でゆえばよがったんだがね」(=あなたたちは、日本語で聞かれたんだから、日本語で答えればいい)

ハッとしました。
私はその時初めて、白人男性が日本語をしゃべっていたことを知ったのです。

「ミナサン、ドコヘイキマスカ?」
確かに英語訛りが強かったのですが、日本語でした。

相手がしゃべっている言葉が何語なのかさえ、冷静に判断することができなかったのです。
私は、金色に輝く髪と青い瞳に圧倒され、「とにかく英語を話さなければ」という気持ちにとらわれていました。

おばあちゃんは、英語を全くしゃべれません。
いっぽう私は、学校で英語を学んでいます。
それでも、おばあちゃんの言語感覚の方が、私よりもずっと優れていました。

そもそも「言葉」とは、人と人のコミュニケーションのツールです。
英語を話そうが、日本語を話そうが、相手とのコミュニケーションがとれて初めて役に立つのです。

もしもあの時、私のおばあちゃんが、白人男性から声を掛けられていたら、どうなっていたでしょうか?

「ドコヘイキマスカ〜?」 

「朝市に行ぐすけに・・・いやはやまんず、おってんぎでねっす!」

注)いやはやまんず、おってんぎでねっす:  新潟弁で Have a nice day!の意

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