絵描きの子の苦労

さあて、何から書いたら良いかな。
あんまり共感されようがない事から書いてみよう。

物心が付く頃には、我が家は油絵の具があちこちに落ちていて、何となく片付かない環境だった。とにかく何を創り出していないと生きていけない様な親父と、絵を描く事以外にはあまり得意な事もない母に育てられて、よく絵の具の毒に当たらなかったと思っている。 いや多分かなりの重金属汚染に晒されていたことだろうと思うのは、19世紀にはよくみられた精神的な問題を私は自ら抱えていた様だと、今ならおぼろげながらに跡付けらるかも知れぬ。 何となれば昭和の世代は金属の毒に無頓着だから、鉛や水銀は子供が手に触れられる場所にあった。
 

幸いにして、隣接して住まう祖父母、祖父は医師であったから幼い時期にはそんな危険な環境には近づけさせない様にはしていたに違いないが、その頃といえば六価クロム公害が日々喧しくて、足尾渡良瀬、水俣の記憶が生々しい時代でありながら、ややもすれば製作に鉛を使ったり、雑に扱って水銀体温計はぶち割れて、絵の具はカドミウム、クロムのまさに金属汚染のいまなら信じがたいほどに危険真っ只中に生きていたのだ。 


カラダを壊すほどな量を日々扱っている金属化学工場ではないが、自宅の父母が日々過ごしていた作業場には西欧近世史にいう家内制手工業レベルの重金属はありふれて存在していた。 昭和の末期は一般的なサラリーマンとはこの様な危険な物質とは切り離された生活を送っていて、空気や水、土壌が汚染されていなければ、生きるにしても汚染には遭いにくい時代にはなりつつあった。 昭和の世代、タバコは絵描きにとっては欠かせないアイテムでありコイツによるダメージはやはりいろいろあったように思われる。何かしら自分はアレルギー性鼻炎やら不登校やらをやらかしていたが、祖父母世代からの栄養管理がなければおそらく早死にしていたに違いない生育環境だったのはいうまでもない。 

私が意識して身につけた知識量の基礎は祖父の資したであろう百科事典の山であり、孫たちの中で一番百科事典を読んでいたと自負しているし、雑多な知識を常に楽しみのために集める癖がついているのも祖父の成した遺産である。絵描きを生み出す様な裕福な世代の残りかすが我が身体精神の基礎だったわけだが、その祖父が何ともなし得なかったのは、粗雑な孫とはいえ我が片耳の聞こえの悪さであったのではないかと、もはや憚ることなく勝手に推測し始めている。いや、今でこそ難聴を気にすることは少なくなっているが、祖父は誠に耳鼻咽喉科にはあまり関心がなかったのではないかと思えるくらい医者の仕事は低空飛行だった様に感じる。何故なら晩年まで全く分野外のがんワクチンの研究に余念がなかったとか、若い頃は帝大の漕艇部にハマり込んで、ガタイがよかった様だし、志願して軍医見習にまでなり死にかけて帰って来たというから、余程か親の七光りの耳鼻咽喉科の看板は厄介だったのだろう。日本でも高名な耳鼻咽喉科学の権威だったらしい曽祖父は比較的早くに亡くなっていた為か、また親戚には某財閥の末枝のカスみたいなところがウヨウヨしていて財産はなかったわけではなさそうなものを、やはり実に始末が悪いというか、勝手気ままな人なりだったに違いなく開業医として病院を構えることもなく、勤務医として勤労者の生涯を終えていた。

全く何一つ家産を引き継げるものなく、ただ墓守りの役は担う事にはなったが、果たしてこの始末つけられるのか分からない。未だ実家には手が付けられないガラクタが山だ。愛おしくも憎むべき負の遺産となるかは我次第となった。


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