【考察】文スト 仙人は道化となりて
◇はじめに
先日投稿した「【感想】文スト アニメ45話」にて、「太宰さんは積極的に相手のテーブルに着きに行く人」というようなことを書いたのですが、あとで見返して気づきました。ひょっとしてこれ、史実太宰の作品における「道化」に似ているのではないか、と。そこから頭の中でいろいろなものが繋がって止まらなくなってしまったので、熱の冷めぬうちに打ってしまいたいと思います。
◇「お道化」のかたち
◆道化の定義
まず、そもそもの「道化」の意味を確認しておきましょう。以下に『デジタル大辞泉』と『日本大百科全書(ニッポニカ)』からの引用を示します。
◆史実作品から考える
それでは、史実太宰が描いた「道化」の姿を分析していきます。ここでは、太宰さん異能力のモチーフとなった『人間失格』と、『斜陽』を取り上げようと思います。
『人間失格』の主人公・葉蔵は、周囲との感覚の食い違いを幼い頃から感じていました。「自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかり」の彼が思いついたのが「道化」としてお茶目に振る舞うことでした。そうすれば、たとえ自分が人間から浮いた存在だったとしても気にならないだろうと考えたからです。
『斜陽』に登場する直治は、貴族という出自から脱するべく薬物や酒に溺れ、「悪くなろう」「下品になろう」とします。直接書いてあるわけではありませんが、この作品の場合はこれが「道化」に相当する行為になるでしょう。貴族様が酒と薬に呑まれて堕ちていく様子は、その苦悩を知らない者からすればさぞかし滑稽に見えるはずです。しかし、血から逃れられないことに絶望した彼は結局命を絶ってしまいます。
両者に共通しているのは、「自らにマイナス点を作って普通になること」を目指している点です。要するに、異分子たる自分を一般に溶け込ませることです。私が使った言葉に置換すれば、同じテーブルに着くことになります。マイナス点とは道化=愚か者として振る舞うことです。再度『日本大百科全書(ニッポニカ)』より、他言語圏における「道化」についての記述を見てみましょう。
自分は「一般的」でなく、皆と全く同じにはなれないけれどせめて近づこうとした。その苦悩の過程を描いた結果こそが、史実太宰が生み出した数々の作品です。作品として人間を語る以上は人間の分析が欠かせません。分析があるからこそ作品が生まれます。『人間失格』でも『斜陽』でも、登場人物の視点を借りつつ事細かに世間一般を分析をしていることが分かります。そうでもしなければ目的のテーブルやそこでのマナーを見つけることもままならないからです。
◆文スト太宰との比較
史実太宰が描いた人物と比較して、文スト太宰さんはその才能により「道化」をうまく使っているように思えます――実際そうなのかは不明ですが。内心は「ワザ」と指摘されるのではないかと恐れているかもしれません。
太宰さんの用いる「道化」の種類は2つあって、1つは相手より下の立場を装うもの、もう1つは相手と対等の立場に着くものです。前者は45話の感想でも語ったように、彼自身が囮になって敵組織に態と捕まるなどの戦法によく使われます。
では後者はどうでしょう。単純に面白い方面であるこの道化においては、太宰さんが同等になりたい・同等でいたい相手であることが重要です。これは史実作品との比較で先述したように、相手と離れた部分を補って近づくための行為です。その相手に皆さんは心当たりがあるのではないでしょうか。かつての相棒、現在の相棒、かつての友、そして探偵社の面々。まあ、この道化はおちゃらけや揶揄いが中心で、他者を困らせたり苛つかせたりするものばかりですが(最も、視聴者たる私たちは当事者でないから笑って見ていられるのでしょう)。中原さんや、織田さんと坂口さんに出会う前の太宰さんに明確な接地点がなかったことは確実です。どこか浮世離れしている。ところが、彼らと関わりを持ったことにより地に足が着き、人間らしい起伏を発し始めます。彼らは太宰さんに「そっちに降りよう」と思わせられるほどの人物、あるいは太宰さんが降りてこれるように手伝える人物だとも言えるでしょう。朝霧先生がおっしゃるところの「精神年齢二千歳の仙人」は、道化となることで俗世に降りてくるのです。
となると、「うきうき☆お悩み相談会」でのドス君とのおふざけは一体……。
◇おわりに
今の自分が持ちうる知識と言葉で、太宰さんの一面を精一杯分析しました。しかし、文スト太宰さんについても史実太宰についても未知な部分が多いため、今後追記や別途の記述があるかもしれません。引用が多く長くなりましたが、最後まで閲覧いただきありがとうございました。5期の放送と、それに伴う太宰さんの暗躍が待ち遠しいです。
◆参考書籍
太宰治、1950、『斜陽』、新潮社
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