故国と言える場所はありますか。

【故国喪失感】
記憶がある、6才の時にはすでにこの感覚を持っていたと思う。 
「生まれる時代を間違えた」よくいう言葉だが、友人には、例え私が江戸時代に生まれてもそう言うだろうと言われた。

私は自分の考えてること、感覚を言葉にして自明にしておかなければ気がすまない人間。
そのため、尊敬する小野不由美さんの言葉を借りると一番しっくり来ることに気づいた時、長年の感覚が形になって、ようやく地に足がついた感じがした。

間違いなく、ここが自分の育った場所なのに、いるべき場所がここではない感覚。
別の場所に自分の故国があるのではないかと思えて仕方ならない。
今いる場所が正しいのか分からず、時折どうしようもない寂寥感がやってくる。
その故国喪失感を生み出したのは、本だった。

幼少気から、変わっていると言われることが多かった。
6~18歳まで、常に学校の誰より本を読んだ自信も、記録もある。
7歳のときには、普通の児童書より源氏物語の方が興味があった。
現代小説より、歴史小説、幻想文学を好んだ。
中学からは、古典を原典で読むようになった。
加えて、歴史好きも相まって、社会と国語の成績は良かった。
6~18歳まで、常に学校の誰より本を読んだ自信も、記録もある。
小さい図書館だったけれど、休み時間は誰も来ないような蔵書の棚の間が定位置だった。もちろん、蔵書の場所はほぼ全部把握していた。
高校では純文学に加え、建築物、美術作品の図録に熱を注いだ。

文学や、多くの国や世界、様々な時代の人の人生を追体験し、それら一つ一つが現実世界に投影されてきた。
その体験が、この感覚を産み出したのだと気付いた。
旅をするのもこの体験を現実に投影しようとしたからだ。
歴史の舞台、物語の舞台を訪れるのはもちろん、海外のど田舎の森、村、教会を一人訪れてきた。
ドイツとチェコの国境の村の深い森の中、真冬の凍りついた湖を1人眺めていた。
帰りのバスもあるのか分からないような、寂れた小さな村。
そんな場所でも不思議と寂しくはなかった。
そんな時はいつも、決まって静かな高揚感を覚えていた。
自分の故国をまた1つ見つけたと、無意識でそう思っていた。

新しいものや流行りものより、古いもの、クラシックなものが好き。
これも、私の「故国」がある歴史、文学に依るものだ。
欧米ならば17世紀、日本ならば18世紀に私の「故国」はある。
そのせいか、私の部屋はヴィンテージだらけだ。
おかげで、友人達からはおもちゃ箱のような部屋と言われてしまっているが、光栄だ。
私の部屋は、唯一私が作り上げられる「故国」なのだから。

この先も、自分の「故国」を捜して様々な人の人生を辿り、現実では名もない場所にまた足を運び続けるのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?