コミュニケーションは暗記科目

類似語は「道徳は暗記科目」である。

「道徳は暗記科目やろ?」
『いや犯罪者やん!笑』

なんてやり取りは、おもしろ引き出しのクソ手前にある冗談としてしばし散見される。

よほどの事がない限り、道徳というのはその9割を基本的に自分を育ててくれる人、基本的には親から教わるものだと思っている。

そのおかげで、道徳は世間的な常識として皆に備わっていて、冒頭のようなやり取りが冗談として成立するのである。


一方でコミュニケーションはどうだろう。

ありがとうやごめんなさいならともかく、大人としての会話に関しては「こういう時はこういう言葉をかけるんだよ」
など、わざわざ教わるものではない。少なくとも俺の家庭では習わなかった。
ヨソでケーキのセロハンやヨーグルトのフタは舐めてはいけない、とかは習ったけど。

だから相手に投げかけられた何気ない会話に対して、どう返したらいいのかわからなかった。

「髪切ったね!」

これに対する正解の返しがわからない。
返し方がわからなさすぎることに悩み過ぎて、髪を切る前日に他の人に回答例を聞いたほどである。


それまでは「はい!切りました!」の次に来る投げかけに対処できる自信がなくて、「髪切ってません!」と、バレるウソをつくというボケに逃げたりしていた。

他にもこういう取り止めのない会話における正解のわからないものが山ほどある。別に面白い返しをしたら勝ちという場面でもない。
合っているのかもわからない相槌を打ってその場を凌いでいた。当然そこから話は広がらずに終了。そこまで話す機会がなく俺のことをよく知らない人には、なんて会話のできない、内弁慶な奴なんだと思われていたことだろう。

自分の体験から思い返そうにも、そもそも反応に困るだろうとか色々考えちゃうからそんな会話を投げかけた事がない。だから当然返されたこともない。

明確に「悩み」に入る事象ではなかったけど、ここ数年はうっすらそれでずっと悩んでいた。


でも少しずつわかってきた。


他人の言動を見聞していれば、みんな当たり前のように返しているからだ。解答は実例の中に書いてあった。

それは、俺が同じ会話の場面に出くわした時、
頭にはそういう気持ちがあったのにどうしても言語化できなかった気持ちの数々。
言語化できたけど、不自然さを感じ取られたり、気持ち悪がられたりしないか不安になって喉元で留めた言葉の数々。
反応に困ったけど一応なんか返さなくちゃいけないのに何も思いつかなかった時の模範解答。

「こう投げかけられた時はこういう返しをする」なんて、どこでも習ってないし、そのセリフを聞くまで知らなかった。

そうだよ、俺それ言いたかったんだよ。
あぁ、俺こう言えばよかったんだ。
あぁ、それ言ってよかったんだ。

俺はこんなこともできなかったのか。


コミュ力があると見なされる訳でもないけど、できないとコミュ力なしと認定されるレベルのものだ。

知らなかったフレーズが、頭の中にあるノートに次々にまとめられていく。知識じゃない語彙力がどんどん増えていく。

経験不足なら経験すればいい。経験できないなら他人から盗めばいい。幸いにも言い回しを盗んでも違法にはならないようで、その証拠に今日までノブさんや粗品さんのマネをする大学生は捕まっていない。

俺の中でコミュニケーションというのは、外界の人たちと関わっていく中であったり、他人同士のやり取りを見て、身につけていくものだった。みんなもそうなのだろうか。


先日なんて、話し相手が連勤最終日で明日が休みだと言う人には

「いやぁ〜、お疲れ様でした!ゆっくり休んでください」

という誰かから聞いたセリフをそのまま言ってみただけなのに、気が利く奴っぽくなれた。

なんてことない返しのはずなのに、思ってることを言語化できて(思ってないことでもちゃんと返せて)頭がスッキリした気分だった。というかモヤモヤする必要がなくなった事に気分が良かった。

ついでに気づいたけど、躊躇なく言えるのは基本おばちゃん相手。俺がおばちゃんに好かれやすい原因もついでにわかった気がする。


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