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短編小説『恐ろしいものを見た男』

赤ん坊の泣き声

久兵衛は道を急いでいた。

昼間は焼けるような陽射しだった。夕刻が近づくにつれて、ひんやりする風が吹き始めたかと思ったら、たちまち黒い雲が広がって来た。

「この分だと直ぐに降ってくるな」

久兵衛は背負った売り物の干物が、雨に濡れるのを恐れた。相模の海で獲れた魚を干物にして、武蔵の国まで行商するのが久兵衛の生業(なりわい)だった。干物が売れない時には、更に甲斐の国まで足を延ばすこともあった。

久兵衛が相模の家を出てから十日目になる。干物はまだ残っていたが、久兵衛は帰路に付いていた。家を出る時の女房の様子が、いつもと違ったのが気になっていたからだ。

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「それじゃ行ってくるぞ」

玄関に腰掛けた久兵衛は、干物の箱を包(くる)んだ大きな風呂敷を背中に担ぐと、腰を上げながら奥に向かって声をかけた。

「おい、行ってくるぞ」

行商の時には見送りに出る女房のお貞が、その朝は姿も見せず、返事もなかった。朝が苦手な女房に、声をかけずに寝かせておこうかと思ったが、返事だけでも聞いて出たかった。

「おい、行ってくるぞ!」

久兵衛は少し大きな声を出した。すると奥の部屋の女房が、布団から起き上がる音が聞こえた。

「行ってらっしゃい。気をつけて」

お貞は布団に座ったまま返事をした。お貞は出て来なかった。久兵衛は玄関の引き戸を開け、まだ明けきらない空を見上げると家を後にした。

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雨が落ちてきた。稲光がして、雷が鳴り始めた。久兵衛は急いで道の脇の木の下に入った。雨脚は強くなっていく。道も直ぐに雨水が流れ始めた。

あと二里歩けば、馴染みの宿にたどり着ける。しかし、雨の勢いは強まるばかりで、当分止みそうもなかった。干物を入れた箱は雨に濡れても大丈夫だが、久兵衛は着物が濡れるのが嫌だった。

今度の行商は良い稼ぎにはならなかった。久兵衛は宿代が惜しくなった。先の方を眺めると、道の右側に沿って流れる川が左に折れる辺りに、炭焼小屋らしいものが木立の間に見えた。久兵衛は、今夜はあそこで夜を越そうと考えた。

雨が上がったのは、すっかり陽が暮れた後だった。少し前までは、同じ様に雨宿りをしていた土地の百姓らしい男がいたが、小降りになると駆け出して行き、今はもう誰もいない。

すっかり雨が上がると、夜空には雲も消えて、丸い月が東の空に見える。久兵衛は水たまりを避けながら、炭焼小屋の方に歩いて行った。水の染みた草鞋(わらじ)は気持ちが悪い。久兵衛は早く荷物を下ろして横になりたかった。

炭焼小屋とばかり思っていたのは見間違いで、民家の廃屋だった。遠くからは分からなかったが、板壁は腐りかけて所々に隙間が覗いていた。こんなことでも無ければ、誰も近づくことのない代物だが、雨露が凌(しの)げるだけでも有り難いと久兵衛は思った。

夕立のおかげか、藪蚊(やぶか)も出てきそうもなかった。辺りは背の高い木に囲まれていて、夏の夜にしては少し涼しく感じられた。

壊れかけた小屋の戸を開け、六畳ほどの一間を眺め回した久兵衛は、荷物を部屋の隅に下ろした。「ふー」と、久兵衛は思わず安堵の息を吐いた。明日の朝早く立てば、夕方までには相模の家に着ける。空腹ではあったが、今晩は良く眠れるだろうと久兵衛は横になった。

壁の隙間から、近くの川のせせらぎの音が聞こえてくる。秋にはまだ遠いのに、虫の泣く声がするように感じる。三十を越えてからする耳鳴りのせいかとも久兵衛は思った。時々入ってくる風が気持ち良かった。

久兵衛が眠りかけた時、赤ん坊の泣き声が遠くで聞こえた。久兵衛は目を開けた。耳鳴りではなく、赤ん坊の泣く声だった。久兵衛は体を起こした。

近くに人家はない。こんな夜に赤ん坊の泣き声がするのはどうしたことか? 久兵衛は小屋の外に出て辺りを見回した。月の明かりの下、見渡せる限りは誰もいなかった。耳を澄ますと、泣き声は川の方から聞こえてきた。久兵衛は足を忍ばせながら川の方へ歩いて行った。

久兵衛が笹藪(ささやぶ)の向こうを覗くと、河原に人影があった。しゃがみこんだ女が、仰向けに寝かせた赤ん坊の首に手をかけていた。赤ん坊は大きな声を上げて泣いている。

河原の母子

泣きわめく赤ん坊の首にかけた女の手が震えている。女の横顔が見えた。まだ若い女だ。着ているものから察すると百姓の女房のようだ。女はためらっていた手に力を入れた。赤ん坊が手足をばたつかせた。

久兵衛は飛び出した。

「やめろ! 何してる!」

久兵衛に驚いた女は、赤ん坊から手を離して尻もちを付いた。女は口を開けたまま後ずさりした。久兵衛は女を睨みつけると、赤ん坊の体に触った。粗末な布の上で泣いている赤ん坊の温もりを感じた。

久兵衛は女に近づいた。女は泣き出した。久兵衛は黙ったまま、女の泣くのを見ていた。子供に手をかけるには、それ相応の訳があるのだろうと久兵衛は思った。

「何をしてるんだ?」

久兵衛は他に言葉が浮かばなかった。女はうつ伏せたまま泣いている。久兵衛は女の泣き止むのを待つしかなかった。久兵衛は赤ん坊の方に戻り、布で赤ん坊の体を包んだ。赤ん坊もまだ泣いている。月明かりに照らされた河原に、赤ん坊と女の泣く声が続いた。

「どうしたんだ?」

ようやく女が落ち着いた。久兵衛は優しく女に訊いた。女は顔を伏せたまま、小さな声で答えた。

「勘弁してくだせえ」

女は畏(かしこ)まって両手を付いた。

「勘弁してくだせえ」

女は地面に頭を付けた。

久兵衛は女の前に腰を下ろした。

「どうしてこんなことを?」

久兵衛の言葉に、女は何も返さなかった。

「子供が邪魔なのか?」

「・・・・・・」

女は顔を伏せたまま黙っている。

久兵衛にも百姓の暮らしが苦しいのは分かっている。おそらく口減らしのためだろうと想像できた。いつの間にか、赤ん坊は泣き止んでいた。

「赤ん坊の名前は?」

久兵衛の言葉に女は初めて顔を上げた。女の顔は陽に焼けていた。若くは見えるが、生活の苦労が顔に表れていた。畑仕事に明け暮れてるのだろう、疲れ切った顔をしていた。

「幸吉・・・・・・ 幸吉ですだ」

久兵衛は暫く考え込んでいた。女は正座して、うなだれたまま黙っている。

「子供は要らないのか?」

久兵衛は女に訊いた。女は顔を上げた。

「子供は要らないのか?」

久兵衛はもう一度訊いた。

「・・・・・・」

女は久兵衛の顔を見上げたまま黙っている。

女は小さく頷(うなず)いた。

「いいのか? 子供をもらってもいいのか?」

久兵衛は女に強く訊いた。女は二度頷いた。久兵衛は赤ん坊を抱き上げた。

「この子をもらっていくぞ。いいんだな? 本当にいいんだな?」

女は大きく頷くと、突っ伏してまた泣き出した。

「私は干物の行商をしている沢田久兵衛という者だ。相模の国で干物を商う沢田久兵衛と言えば尋ねて来れる。もし、子供を返して欲しくなったら、尋ねて来てくれ。この子は大事に育てる」

そう言うと、久兵衛は赤ん坊を抱きかかえて廃屋に戻って行った。女は泣き崩れている。

女房の笑顔

相模に帰った久兵衛は、玄関の戸を開けた。

玄関に立った久兵衛は赤ん坊を抱えている。

「今帰ったぞ」

久兵衛は赤ん坊を玄関の上がり口に置くと、腰を掛けて背負った荷物を下ろした。お貞はまだ出て来なかった。

「おい、今帰ったぞ」

赤ん坊は眠っている。奥から足音が聞こえた。お貞が出てきた。

「お帰りなさい」

お貞は夕飯の支度をしていたようだ。

「早かったね」

お貞は久兵衛に声をかけた。久兵衛はお貞の方を振り向いて笑っている。久兵衛の視線が傍らの赤ん坊の方に移った。お貞は赤ん坊に気がついた。

「どうしたの? この子はどうしたの?」

お貞はしゃがんで赤ん坊の顔を覗き込んだ。赤ん坊は良く眠っている。

「誰なの? この子?」

お貞の驚いた顔を、久兵衛は嬉しそうに見ている。

「もらって来た」

久兵衛は簡単に答えた。お貞は意味が分からなかった。

「どういうこと?」

「行った先の村で、子供が多くて食うのに困った家に出会ってな。それでもらって来た」

「そんな・・・・・・ まさか、そんなことが・・・・・・」

お貞はまだ良く飲み込めていなかった。久兵衛も、詳しい話はしたくなかったが、子供を連れて来たことは納得させなければと思った。

「百姓が食っていくのは大変だ。三年も不作が続けば無理もない」

「本当に大丈夫なの? もらって来て?」

お貞はようやく事情が分かってきたようだ。

「ああ。大丈夫だ。もらってくれって頼まれたんだよ」

久兵衛は、あの女が子供を取り返しには来ないだろうと思った。

お貞は赤ん坊を抱き上げた。

「男の子だね? 名前はあるの?」

「幸吉だ。幸吉」

「いい名前だね。幸吉か」

お貞は抱いた赤ん坊の寝顔を見つめて微笑(ほほえ)んだ。

久兵衛は子供をもらって来て良かったと思った。お貞のこんな顔を見るのは久しぶりだった。

亡くした子供

隣近所には、赤ん坊は親類の子供を養子に迎えたことにした。幸い二人共、血縁は近くには居なかったので、面倒なことを訊かれることはなかった。

今日もお貞は干物作りに汗を流している。はらわたを取り、頭をおとして二枚に開いた鯵と鯖に塩を振る。二枚のしっぽを紐で絞り、庭先にこしらえた竹の竿に吊るしていく。

夏の陽が真上から照らしている。お貞の額に大粒の汗が光っている。

魚を吊るし終わると、お貞は縁側に腰を掛け、綺麗に並んだ魚を眺めながら汗を拭いた。お貞の横には幸吉が寝ている。お貞は幸吉に団扇を扇(あお)いでやる。今日は風がなくて蒸し暑い。幸吉は気持ち良さそうに眠っている。

隣の家の女房のウメが木戸を開けて入ってきた。隣の家も同様に干物を作って生計を立てている。お貞の母親ぐらいの歳だが、話好きで用がなくても良くやって来る。最近は赤ん坊の顔を見るのが楽しみで、毎日のように顔を見せる。

「幸ちゃんは元気かい?」

ウメは曲がった腰を延ばして、姑(しゅうとめ)のような顔をしてお貞に訊いた。お貞は、毎日同じことを訊いてくるウメに嫌な気がしなかった。子供のことを尋ねられることが嬉しかった。

「うん。良く寝てる」

お貞は幸吉の方を見て答えた。ウメは縁側に腰を下ろすと、幸吉の顔を覗いて頭を軽く撫(な)でた。

「いい子だよ。いい子だ」

ウメの言葉に、お貞も笑顔になる。

「いい子をもらって良かったねえ。あれだよ、きっと太一ちゃんの生まれ代わりだよ。きっとそうだよ」

ウメは幸吉の顔を見ながら言った。お貞の顔が一瞬曇った。

「・・・・・・」

ウメはお貞の表情から、余計なことを言ったと気がついた。

「久兵衛さんは出てるのかい?」

ウメは話を変えようとした。

「うん。昨日から」

「大変だねえ。内はもう売りに出るのは止めることにしたよ。内のも歳だしねえ」

ウメは庭に干した魚の方を見て言った。

「そうなんだ」

お貞は返事をしながら、頭では太一のことを考えていた。太一というのは、二年前に亡くした赤ん坊のことである。

「不二家に納めることにしたよ」

不二家というのは、この辺りでは大きい方の部類に入る料理屋で、繁盛していた。

「それがいいよ」

お貞は他人事のように答えた。

隣との境の垣根の向こうから、ウメの亭主の平六が顔を見せた。

「ウメ! ウメ! おい!」

呼ばれてウメは仕方なく立ち上がった。

「それじゃまた来るよ」

ウメはもう一度幸吉の顔を覗いてから帰って行った。お貞は幸吉を抱き抱えて部屋の中へ入った。

ウメを迎えた平六は機嫌が悪かった。

「また余計なことを言いやがって」

「何がだよ?」

「死んだ子供のことだよ」

「太一ちゃんのことかい?」

「そうだよ。余計なことを言うなよ!」

「聞いてたのかい? いい子が来たから、つい・・・・・・」

「実の子供とは違うんだよ」

その頃、お貞は幸吉を抱いたまま仏壇の前に座っていた。仏壇には太一の位牌がある。

お貞は、先程のウメの言葉を思い返していた。

『きっと太一ちゃんの生まれ代わりだよ』

お貞は幸吉の寝顔を見た。幸吉は良く眠っている。

女房の疑い

それから十日あまりして、久兵衛が行商から戻った。

「今帰ったよ」

お貞の返事はなかった。久兵衛は荷物を上がり口に下ろして腰をかけた。行商から戻った時はいつもそうだが、全身の緊張が解かれて、大きな仕事をやり終えた満足感があった。

「おい、帰ったぞ」

お貞の返事がない。久兵衛は上がらずに玄関を出て、裏の方へ回ってみた。もしかしたら、裏の井戸のところで洗い物でもしているのだろうと思ったからだ。

家の角を曲がると、井戸の横に立っているお貞が見えた。

「お・・・・・・」

久兵衛はかけようとした声を飲み込んだ。お貞は両手に抱えた幸吉を、井戸の上に突き出しているように見えた。久兵衛は何か異様な雰囲気を感じて足が止まった。久兵衛は体が動かなかった。見てはいけないものを見てしまったと思った。

お貞は幸吉の顔を見つめていた。幸吉はお貞に笑いかけている。お貞は、幸吉の顔立ちに太一の面影を感じた。そして、亭主の久兵衛に似ていると思った。

隣のウメから言われたからなのか、幸吉の太一や久兵衛に似た所が、お貞は気になった。

「もしかして・・・・・・まさか・・・・・・」

お貞の胸に一瞬浮かんだのは、幸吉は久兵衛が他所で作った子供ではないのかという疑いだった。亭主は幸吉ほど太一を可愛がっただろうか? 太一の死を自分ほど悲しんだろうか? お貞の胸に嫌な思いばかりが去来する。そもそも、頼まれて子供をもらって来たというのが怪しかった。だんだん幸吉の笑い顔が憎らしく感じてくる。

「おい、帰ったぞ」

久兵衛は声をかけた。お貞は振り向いて、直ぐに幸吉を抱きかかえた。

「お帰んなさいまし」

「何かあるか? 腹が減った」

久兵衛は、お貞が幸吉を井戸に落とそうとしたのかと思った。その疑いを追い払うように、日常に引き戻そうとした。

「昼の残りでいいかい?」

「ああ、何でもいい」

久兵衛は幸吉をお貞から受け取り、顔を覗き込んで笑いかけた。お貞は振り向いて、そんな二人を見て台所へ入った。

久兵衛が漬物をおかずに飯をかき込んでいる間、お貞は黙っていた。

「近頃は江戸の方からも売りに来るらしい」

久兵衛は静かなのを嫌って商売の話をした。

「そうかい。売れなかったかい?」

お貞は期待しているようには見えなかった。

「いつもより、足を延ばして奥の方まで行ったら、なんとかな」

「大変だったね」

お貞は違うことを考えているように見えた。

久兵衛は、どうしてお貞が幸吉を井戸に落とそうとしていたのか考えていた。幸吉の元気なのが、病(やまい)で死んだ太一を不憫に思わせているのか? 実の子でない幸吉を、亭主が可愛がるのが気にいらないのか? 女房の寂しさを思って、幸吉を太一の代わりと簡単に考えたのが間違っていたのか? それとも、さっき見たのは、唯の違いだろうか?

「どうしたんだい? 考え込んで」

お貞は久兵衛の箸が止まったのに気がついて、自分の物思いから覚めたような顔をしていた。

「え? ああ、何でもねえ。ところで、留守中何もなかったか?」

「ええ、何もないよ。あ、そうそう、隣じゃもう売りに歩くのは止めるらしいよ。不二家へ納めることにしたって」

「そうか。おじさんも歳だしなあ、仕方ねえな。俺も、いつまで出れるかなあ」

「まだまだ頑張ってもらわなくちゃ困るよ。幸吉もいるし」

そう言って、お貞は久兵衛の顔を見た。

「ああ、そうだな」

久兵衛はお貞の視線をそらして、箸を置いた。

「幸吉はどうだい?」

「どうって?」

「元気にしてたか?」

「幸吉は元気にしてたわよ」

「そうかい。そりゃ良かった」

それから少しの間、会話が途切れた。お貞は膳を片付け、久兵衛にお茶を入れて持って来た。

「もうす直ぐ太一の命日だよ」

お貞は湯呑を久兵衛の前に出して言った。

「ああ、そうだったか。もう、そうか」

「あんた、忘れてたの?」

お貞の目にきつい色が走った。

「そういう訳じゃねえよ」

久兵衛は、「また始まった」と思った。お貞は太一のことになると神経質になって、何かと久兵衛に食って掛かるようになっていた。そういう時、久兵衛は直ぐにも行商に出たい気持ちになった。

「あんたは冷たいんだよ」

お貞は腹の底に積もったものを吐き出し始めた。

「葬式の時も泣かなかったし」

お貞は前掛けで自分の涙を拭った。

「何だよ。そんなこと。人前で泣けるかよ、大の男が」

久兵衛は、こういう時の自分が情けなかった。女房に責められる甲斐性のない男に思えてしまう。子供も女房も幸せにできない亭主だということを思い知らされる。

お貞は横を向いてしまった。久兵衛は立って、幸吉の寝ている部屋へ行った。幸吉は良く眠っていた。久兵衛は座り込んで幸吉の顔を眺めた。

久兵衛は思った。幸吉は太一の代わりにはならないのか? そういうことに思い至らない自分は薄情なのか?

お貞は気に入らなかった。

自分から逃げるようにして、幸吉の顔を見に行った亭主に腹が立った。自分だって幸吉を可愛く思わない訳じゃない。ただ、幸吉に太一の面影が重なり、太一への後ろめたさが募るのだ。それよりも、本当のところは幸吉にではなく、亭主への不満が全てなのだ。

それからも、お貞と久兵衛は幸吉を間に挟んで、こんな暮らしを続けた。それでも、お貞と久兵衛は幸吉を大事に育てた。幸吉の実母は、その後も現れなかった。

久兵衛は自分の薄情さを、幸吉によって誤魔化そうとしていたことを自覚していた。河原で自分の子を殺そうとした母親と、井戸に子供を落とそうとした女房ほどの情が、自分には欠けていると思った。殺したいほどの情が、自分にはないと思った。

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