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「早く動こうとするな、早いと知れ」が名言なわけ

なにかの時に「ただ、お茶をいれてるだけでカッコイイ人と。なんかカッコ悪い人の差はどこに?」という話題になったことがあります。映画に出てくるような老執事はなぜカッコイイのか問題です。

バーテンダーさんでも似たことが言えますが、「ただカクテル出してくるだけなのにかっこいい」みたいな人や、「ただお茶を持ってきてくれるだけなのに美しい」みたいな人、たまに存在してます。特別なことはなにもしていないのに、なぜか動きが美しいみたいな人種です。「何かが違う」と印象に残ります。

こういう人たちの特徴を分析するなら「無駄な力みが少ない身体の使い方が、自然と身についている」ということがあげられるでしょう。無駄な力みがない合理的な所作が無意識に身についていると「ただ、グラスを運んでくるだけ」みたいな所作が無駄に美しくみえるのではないかと。

ポイントとしては「適度に力が抜けていること」と「無意識にそうなっていること」です。

映画マトリクスに「早く動こうとするな。早いと知れ。」みたいなセリフがあった気がしますが、「やろうとして意識的にやる」と変なことになり、「できることを(身体が)知っている」だと変なことになりにくい、というのはわりとありそうな話な気がしています。

「なぜかグラスを運んでくるだけでかっこいい」は、からだの動きが改善されてくると「結果としてできるようになるもの」という話です。

「お茶を出す」「グラスを出す」とかならそのものの稽古は日常生活だけでよいと思うので、たとえば脱力を目的にした稽古を習慣の中にいれてみたらいいのではと私は思います。(3か月もやれば、適切に行えていれば「あれ?なにか変わった?」と他人から言われることが出てくると思います。)

あと「普段はできてるのに、知らない人が多い場だとなぜかできなくなる」みたいなパターンもありそうですが、これは肉体ではなく感情の問題なので「鋼のメンタルを育てる」みたいな別アプローチも必要かもしれません。

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