「葬式不要」の遺言はなぜカッコヨサがあるのか

前提として「葬式」って遺族が自分達のためにやってるところがあって、故人の遺志は必ずしも尊重されないことがあります。

古くは平清盛公が「俺の葬式とかいらん。頼朝の首をもってこい。」と「葬式なんかにうつつをぬかさずに仕事しろ!」と遺命を残しましたが、子孫は言うことを聞かずに葬式を行い、そういう性質がたたったのか平家滅亡となったという話もあります。


儀式はトップがやめさせようとしてもなかなか消えないという例の1つでしょう。

「くだらない風習と自分が思ったこと」に対してできることは、「自分はその風習が必要なグループになるべく参加しない」「自分のグループではその風習はなるべくやらない」といった小さな抵抗でしかありません。具体的に手の届く範囲だけ何かしようということです。

みんなが疑問を持つような風習というのは「たまたま現時点で多数派になっている」という以外には大きな基盤を持たないことが多いです。その風習が多数派になっている基盤が崩れれば、いつの間にか消えていくことも少なくありません。

紙の年賀状などがいい例ですが「昔はやってたけどいつの間にかほぼやめている人」は多いと思います。2003年と2020年で比べると年賀状の発行部数は半分になってます。

これも「なんとなくやめた人。減らした人。」が段々と多数派になった結果で「廃止運動」は大きな決め手にはなっていなかったのではないかと思います。

年賀状(紙)をやめる大きな流れを作ったのは「インターネットの普及」「メールやLINEの普及」という構造の変化です。ネットでいつでも連絡はとれるからわざわざ紙で挨拶する必要性が低くなったという話です。

「年賀状ムダだからやめようよ」的な虚礼廃止運動自体は大正時代から文部省が行ったりしていました。もちろん「やめます」と公言する人が増えれば「抜けたい人」の後押しにはなります。ただ、こうした啓蒙活動は無意味ではないものの決定打ではなかったのではないかと思います。


年賀状自体は「郵便という通信システム」ができてはじめて生まれた習慣です。「初詣」という風習が鉄道が普及して以降に登場したのと似ていて明治の近代化よりあとにできた風習となります。そして、「郵便や電話」しかなかったところに「インターネットという通信システム」が新しくやってきたことで、年賀状という風習を支えていた基盤が少しづつ消えていったわけです。

社会的な風習を変えるにあたって、啓蒙活動は有力者やお役所がやっても限界があるが、その風習を支えていた前提が変わってしまえばスムーズに変化が起きることがある、といういい例の1つかなと思います。


「葬式無用・戒名不要」みたいな遺言は「自分の手が届く範囲は自分が理想だと思う方向に変える」という強い意志が感じられるのでカッコよさがあるのではないかと私は思います。

(葬式は人間が死ぬ限りにおいて決してなくならない気がするので、「してほしくない派」な人は「うちはしないでと遺言する」以外のことはなかなかしにくいのではと思います。)

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