ウィーンへ行きました。②

緊迫の北京線

 その日、朝のNHKニュースでは関東地方で長い梅雨がようやく明けたと報じていた。羽田ー北京の日帰り便にアサインされていたので、朝七時過ぎに客室部に出勤した。
 チーフ・パーサーは藤野奈津子。この藤野は客室部ではお局様的な存在だ。四十半ばという年齢からだけではない。言動が「お局様」風なのだ。何かと上から目線で、後輩にハラスメント紛いのしごきをする。サービスに関しては、妙に色気に訴えるというスタイルで、それも揶揄の対象だった。その上、マニュアル通りに動かず、自分が好きなようにサービスを変えるので、一緒に働きにくいという声も聞いていた。
 さらに言えば、外見もちょっと目を引くところがあった。藤野は、数年前に腰を痛めて以来、異様に痩せてしまった。細くなった顔を化粧で華やかにしたいのだろうが、いかんせん濃すぎた。それがお局様風というか、古臭く感じられた。
 朝のブリーフィング・デスクでは緊張して挨拶をした。何しろ、この日のフライトで藤野はこのわたしをファースト・クラスのパーサーにアサインしたのだ。チーフ・パーサーとファーストのパーサーは着席位置も近いし、何かと協力し合う重要なポジションだ。ちなみに、このフライトには、今回ウィーンに来ている美樹も一緒だった。美樹は、このときのフライトではビジネス・クラスの担当だったと思う。
 往き便は、空席も多く、サービスは滞りなく終えた。中国便はコロナ禍後、最も早く復活したものの、日本から中国に向かう便に関しては、まだ以前の客足が戻っていない。
 北京に到着し旅客が降りたあと、CAらは空港の出発ロビーで待機する。十~二十分ほどの休憩時間だ。そのあとは、また機内準備をして旅客を迎えて、という緊張の時間が始まるのだ。だから、この短い休憩の間だけでもリラックスしたい。皆、休憩に入ろうと三々五々に散り始めた。それなのに。
 「みなさーん!」
 藤野が呼び掛けた。チーフに呼ばれたのだから集まるしかない。何事かと思えば、藤野は蕩々と説教を始めるではないか。内容は彼女なりの精神論というか、サービスとは何か、ということを各々考えながら今日の業務に当たって欲しい、という趣旨のスピーチだった。ロビーで声を張り上げてするような話ではなかったし、例えも酷かった。
「私達をホステスのように思う人もいます。でしたら場末の飲み屋ではなく銀座のバーのホステスのような一流を目指しましょう」
 というのだ。一同、目が点となった。傍らにいた一般の旅客らは吹き出していた。藤野は反応の無さにバツの悪い顔をした。

 幸い、そうこうしているうちに機内に乗り組む時が来た。帰り便のファースト・クラスは満席だった。北京からの帰り便旅客は、何故か不機嫌なことが多い。中国でのビジネスはストレスが溜まることが多いのだろう。
 難しい客が多い時、わたしは、何はともあれ食事の提供に急ぐ。お腹が一杯になると人は丸くなるものだ。ファースト・クラスの食事はフランス式のフルコースメニューだ。猫の手も借りたいほど忙しい。だが、藤野はギャレー(厨房)に入るでも、飲み物のオーダーを取るでもなく、旅客に雑誌を配ったり、会話したり、優雅にやっている。苛々したが、大先輩に指示はできない。
 十八名の社長級の旅客にフルコース・サービスを提供するというのは、短距離ランナーの全力疾走に値するほど、精神と体力を消耗するもの。その上、大先輩にあたる藤野を立てながら立ち回らなくてはならない。藤野は噂通り、サービスの順番を入れ替えたり、料理のアレンジを施すといったアドリブが多く、振り回された。それでもサービスは無事修了し、飛行機は定刻に羽田空港に着陸した。
 到着すると、ファースト・クラスのCAは一人一人の旅客に挨拶し、背広や預かり荷物を返すという作業で忙しくなる。藤野はドア・サイドでスタンバイし、外にいる地上係員がドアを開けてくれるのを待っている。
 ゆき恵はふと、藤野のそばのドアに設置されているギア・ボックスに目が行った。これは習慣的なものである。おそらく、多くのCAは同様の習慣を持っていることだろう。それくらい何度も何度も、このギア・ボックスのレバーの重要性を説かれているのだ。
 このギア・ボックス内にあるレバーは、ドアに収納されている脱出用スライドが、緊急時には自動的に膨らむよう、そして通常時には作動しないよう、設定を切り替えるためのものだ。スライドというのは、座席前にある「安全のしおり」に図解されている、あの気体で膨らんだ巨大な滑り台のことだ。膨らむときはものすごい力で気体が噴き込むように設計されている。到着ゲートやブリッジで誤って膨らむことがあれば大事故が起きること間違いない。ドアの近くにいる者は押し飛ばされ、死に至る危険性もある。ゆえに、レバーの操作は重要なのだ。
 
 あのとき、わたしの目はレバーに釘付けになった。レバーはオン位置にあった。このままの状態でドアが開いたら、スライドは自動的に膨らみ、ドア・サイドにいる地上係員達は飛ばされてしまう。

 次の瞬間、全てがスローモーションのようになった。
 
 手にしていた旅客のボストンバッグをその場に落とした。そして、前かがみの姿勢でタックルするがごとく飛び出した。
 藤野は澄ました顔で、ドアの小さな窓から、地上係員にドアを開けるよう、親指を立てOKのサインを出している。地上係員はドアをドンドンと叩いて、「了解」の合図を返している。
 藤野を両手でなぎ倒すように押しのけ、レバーをオフ位置に動かした。
 ほぼ同時に外の地上係員はドアを引き開けた。
 間一髪とはこのことである。藤野をはじめ、近くに居た旅客、CA達、皆が静止した。地上係員だけは、今、自分が命拾いしたことも知らず、いつも通り、引継ぎ事項を早口でまくし立てていた。
 わたしも動揺していた。ものすごく動揺していた。心臓がドクドクドクと、ものすごいピッチで高鳴っていた。でもアドレナリン効果なのか頭は冴えていた。息を整えると、茫然としている藤野の手元から顧客情報ファイルを取り、突きつけるように係員に渡した。地上係員が、
「大丈夫ですか、顔色ーー」
と言いかけたが、
「はい、特記事項は?」
と遮る。
 係員との事務連絡を終えたところで、旅客に向かい笑顔を作り、
「本日のご搭乗、誠に有難うございました」
と深く、深く、頭を下げた。
 
 このフライトの後、しばらく気持ちが落ち着かなかった。北京便で危機一髪を経験した、その緊張感を引き摺っていることは確かだ。だがそれよりも、何故だかいつも藤野のことを考えてしまって、気持ちが休まらなかった。バーのホステス云々というスピーチのあとの、あのちょっと悲しそうな表情、ドア・サイドで茫然とした藤野の顔。ファイルを奪い取るようにその手から引き抜くと、ようやく我に返り取り繕うように浮かべた、あの引きつった笑みーー。
 恋人の原田に会った時も、
「私、どうしてもあの人の悲しげな顔が頭から離れないの」
 と藤野について、その人となりや、客室部での噂、そして今回のフライトでの出来事など、詳細に説明した。原田に分かって貰いたかったのだ。それなのに原田は、
「顔が離れないって気持ち悪い。ユキちゃん、取り憑かれちゃったんじゃないの」
 とお岩さんのような手振りをして笑った。そのリアクションが幼稚で、おじさん顔の原田に似合わず、思わず鳥肌が立った。発言も無神経過ぎる。
「幽霊だなんて酷い。藤野さんは、少し疲れているのかもしれないけど、そんないい方ないでしょう」
 と苛立ちを見せると、原田は拍車をかけ、
「だってなんか気色悪いよ。そういうオバサンに接客されるのは勘弁してもらいたいね」
 とオエーッと食べ物を吐き出すような仕草をするので、目を反らしてしまった。困惑していることに気がづいたのか、
「わかったよ、ふざけすぎたよ。ユキちゃんは自分がなさ過ぎるんだよ。だからその人に乗っ取られるんだよ。ほら、笑って」
 と原田はわたしの肩を抱いた。原田の言葉は痛いところを突いていた。
 この後も藤野のことを考える時もあったが、一か月も過ぎると思い出すことも少なくなり、気づくとページを繰っていた。
 
 それが、十日ほど前のことだ。
 藤野が遺体となって発見されたのは、秋雨降る肌寒い朝のことだった。乗務予定があるのに出社しない藤野を心配して、近くに住む社員がマンションへ見に行ったところ、リビングで倒れた状態で亡くなっていたそうだ。この話を聞いた時、震えるほどの寒気を感じた。
 藤野のプライベートについては殆ど知らない。あの北京フライトで同乗しただけの縁だ。それでも、どうして亡くなったのか、もしかしたら、あのフライトが、藤野の死に何らかの影響を与えたのではないか、
 藤野は享年四十六歳だったそうだ。そんな年だと、同期は殆ど退職している。個人的な事情を知っている人も限られているだろう。そもそも藤野は、あまり自分のことを語らない人だったらしい。
 その気持ちが良くわかった。わたしも同期らが家族や両親について話す時は口を噤んでいる。「ママがこのバッグ買ってきて、っていうからさ」と、嬉しそうにお土産を買う同僚や、「正月くらい、休みとって帰って来い、って親が煩いのよ」という普通だったらどうってことない会話も、わたしにはできない。まさか「うちは一家離散でね」とは言えないではないか。皆どう反応していいのか分からず、困らせるだけだ。
 一人の夜は藤野のことを考えた。眠ろうと思って目を瞑るが万年時差の生活だ、眠気は中々やってこない。暗闇の中で、不安が細菌のように増殖していく。孤独死。自分だってそうなるかもしれない。家族がいないも同然だ。原田はいるけどーー。自分も、藤野みたいに、ある朝、心臓が止まってしまったらどうなるのだろう。両腕で肩を抱きしめ寝返りを繰り返す、そんな夜を過ごしていた。

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